第11章 もう聞こえない【音好きシリーズ】
「…なんだいあんたは?」
そう言いながら奥さんは、私の前に、まるで杏寿郎さんから私を隠すように立ちはだかる。
「騒がせてすまない。俺の名は煉獄杏寿郎」
「…杏寿郎?」
「はい!そこにいる彼女、柏木すずねの恋人です」
「…っ!」
"柏木すずねの恋人です"
この人はまだ、私を恋人と呼んでくれるのか。
嬉しくて、けれども同じくらい辛くて、私の目には今にもこぼれ落ちてしまいそうな程の涙が奥の方から迫り上がってきた。
「…違います。恋人なんかじゃ…ありません」
「いいや。恋人だ。別れ話をした事は一度もない。そもそもそんな話をする機会もなかったがな」
杏寿郎さんの声は先程とは違い穏やかではあったものの、その内側には確実に怒りの感情が見えていた。
「そう。あんたが"杏寿郎"かい。…思っていたよりずっと良い男じゃないか」
奥さんの"杏寿郎さん"を知っているようなその言い方に、私は驚愕した。
「…っどうして奥さんが杏寿郎さんのことを…?」
今まで一度たりとも杏寿郎さんの話を出したことはない。むしろ、私がどこからきたのか、何をしていたのか、それすらも話したことはなかったし、奥さんも不用意に詮索してくるようなことはなかった。だからなぜ奥さんの口から杏寿郎さんの名前が出てきたのか不思議で堪らなかった。
「すずねちゃん。あんたね、自分では知らないだろうけど、寝言でよく"杏寿郎さん"って呼んでたんだよ」
「…っ…うそ…」
まさか自分がそんなことを言っていたとは。恥ずかしさと、そして自分がそんなにも杏寿郎さんのことを求めていたとに対する驚きで、それ以上言葉が出てこなかった。
「あんたにとって大事な人なんだろうなとは思ったけど…なんか事情があるんだろ?」
奥さんはそう言いながらにっこりと笑った。
「今日の仕事はもういいから、話をしてきな!じゃないと、もうここでは働かせてやんないよ!?」
その言葉は厳しくも思えたが、奥さんが優しさからそう言っていることはわかった。
「…っ…わかりました。でも、せめてこれだけは片付けさせてください。杏寿郎さんは…少し外で待っていてください」
「うむ。わかった」
その言葉を聞き、私は今度こそ湯呑みとお皿をきちんとのせたお盆を持ち店の裏へと行った。