第32章 五年前の真実
杏「畏まらないでくれ。ご存知のようだが俺は鬼殺隊の煉獄杏寿郎だ。」
そこで言葉を切ると、杏寿郎は意思の強い目を向けた。
杏「初対面でこのような事を訊く無礼を許して欲しい。貴方が菫さんの元許婚の男性だろうか。」
俊彦は杏寿郎より十近く歳上に見える。
杏寿郎はそれにもやもやとした感情を覚えた。
俊彦はそんな杏寿郎に眉尻を下げた優しい笑みを向けた。
俊「……そうです。しかし五年も前に取り戻す事は諦めてしまいました。あの子は煉獄様に骨抜きにされていましたので。」
杏「…………。」
赤い目が大きく見開かれる。
杏寿郎は菫の元許婚であり、将来の義弟になるかも知れない俊彦との対話は必須だと考えていた。
そして、鬼に拐かされた可能性があるとはいえ、菫が失踪した際に噂になった相手が杏寿郎であると把握していたのなら、言葉を交わす事でさえ拒絶される可能性も十分にあると思っていたのだ。
俊彦は驚く杏寿郎に微笑んだ。
菫が失踪した晩から一番捜索に自らの手を尽くしてきたのは、まだ若く自由のきく年齢の俊彦であった。
俊彦は菫に心底惚れ込んでいたし、失踪を知って酷く心を乱した。
そして隊士を通して蝶屋敷の存在を知ると、何の確証も無しになんと自ら忍び込んだのだ。
しかし、忍び込んだ先で運良く見付けた菫は心底楽しそうだった。
そして、俊彦が盗み聞きしている間彼女はずっと "煉獄様" について話していたのだ。
俊「聞いた事の無い楽しそうな声を聞いたら一声も掛けられませんでした。私は幼い頃からあの子の笑顔を見ようと様々な物を贈りましたが、一度も微笑んでくれなかった。でも…、」
俊彦の記憶の中の菫が横に居る同僚の男の方を向く。
その顔には少女の様な笑顔が浮かんでいた。
俊「…あんな顔で笑うだなんて。」
俊彦はそう言って困った様に笑った。
杏「……。」
杏寿郎は歳を羨んだ男に逆に羨まれ、返す言葉が見つからなかった。