第1章 はじまりの夜
コツ、コツ……と長靴の踵を踏み締め、自室へと戻る。
そしてコートハンガーに掛けていた白いキャンパス地の斜めがけ鞄を手に取った。
仕事に必要なものを次々と詰めていく。
手帳とメモ帳のセット、財布に定期入れ、
ネームホルダー、非常用に小分けした瓶詰めの紅いあかい錠剤………。
『俺も行きます』
準備をしかけていた手がピタリと止まる。
「マリス……。」
遠慮がちに名前を呼ぶ彼女をまっすぐに見つめる。
その視線の先で、先刻彼がみせた瞳と同じいろを宿した瞳と視線がかち合った。
『酷く胸騒ぎがするんです。
あなたの身になにか……良くないことが起こるでしょう』
恐れと動揺、そしてただひたすらにヴァリスを想い案じている。
(どうして、………そんな眼をするの……?)
漣のような惑いがその内で滲む。
祖母も愛猫も、いつだって真意だけは教えてくれなかった。
何だかいつも自分だけが守られているように感じて、彼女は唇をひらく。
「……でも」
『駅に着くまでの間だけですから、』
尚も食い下がる愛猫をじっと見つめる。その瞳の奥に隠した、真意を探るように。
「………。」
「………………。」
しばし瞳を交わしあう。
けれどその双眸は澄んだ色彩でありながらどこまでも深く、本心は見透かせなくて。
ややあって、ほぅ……とため息をついたのは彼女のほうだった。
「……本当に駅に着くまでよ?」
鞄に入るよう促すとしなやかに身を潜める。
その毛並みを撫でたのち、ちらと腕時計を確認した。
「!」
そしてはっとその瞳が冴えわたる。
電車の時刻が近づきすぎていて、急いて鞄をななめ掛けにした。
「行ってきます……!」
祖母に声をかけ、忙しなく足音を打ち鳴らした。