第1章 はじまりの夜
「ヴァリス様……。」
足音が消え去った後、その名を口にする。
(主様のご様子からして、余程大切な愛猫なのでしょう)
けれど、彼女のあの焦りようは、それ以上の事情が絡んでいるような気がした。
ふれた肩はあまりに細く儚くて、その稀有な容貌に密やかな華を添える。
とじた瞼を灰色の睫が彩り、呼吸とともにわずかに震えていた。
「っ………。」
行方の知れぬ愛猫を思って、不安と心細さにゆれていた瞳。
紺碧色の双眸にはそれらの感情とは別のなにかも映っていたように感じて、
そしてそれに思い至ったみずからに愕然とした。
慌てて首を振る。
(マリス殿を早く見つけ出して差し上げなければ)
さら……と髪を掬い上げる。
「おやすみなさいませ、主様。
貴女の瞼に、よき夢が宿りますように」
唇を寄せる。
ふわりと薫る、彼女の甘い匂いを抱きしめて、そっと立ち上がった。
部屋を出ていく。
けれど彼女の温もりが、不安にゆれる瞳が、未だ瞼の裏に灼きついている気がした。