第6章 惑いの往く末 前編
「いや、………厭ぁ……。」
尚も身を捩り逃れようとする彼女の抵抗を封じる。
「俺だ、主様……!」
声を張り上げられ、漸くその瞳が彼を映した。
「は、………バスティン……?」
一瞬にしてその瞳が冴え渡る。
身体の震えをしたたかに抑え込んで、その胸を押し返そうとする手首をつかまれる。
忙しなくさ迷う瞳を、動揺を宿す眦を静かにみつめられ、彼女は息を呑んだ。
「っ………。」
心の奥底まで見透かされそうな心地がして、ヴァリスは彼から視線を解きながら呟く。
「は、離して」
痛みを映す表情を隠すように
バスティンのおもてから顔を背けながら、彼の腕のなかで身動ぐ。
彼の腕のなかにいるのは落ち着かなかった。
黒曜の手袋に包まれ指が伸ばされて、思わずぎゅっと瞼をとじる。
「!」
優しい指が彼女の頬を伝っていた血の雫を拭って、瞠目する瞳の先でバスティンは唇をひらいた。
「すぐに片付けるから隠れていてくれ」
そう告げ、天使たちに切りかかる。
強靭な青い刃が、次々に襲いかかってくる彼らを切り裂いていく。
風を纏うようき天使たちを倒していくふたつの後ろ背を見守りながら、ふと自分の掌を見下ろす。
(さっきのは、一体……。)
未だ震えが止まらない自分の掌。頭の奥が軋んで知らず瞳を伏せた。
見慣れぬ人々、見慣れぬ一室。『何か』を奪われた痛みと喪失感だけが
染みのようにその胸の内を満たしており、彼女は唇をかむ。
(私は………、)
何か、重要な記憶を忘れているのかな……。
そう思い記憶の箱を手繰り寄せかけて、
途端に身体が拒絶するかのように軋んだ音を立て、
彼女はその場にしゃがみ込んだ。
その鮮烈な痛みように何だかとてつもなく怖くなって、その事について考えることを辞めた。
(今は、わからないほうがいいのかも……。)
そう自分に説き伏せ二人を見守る。
その背中はヴァリスには推し量れぬ感情を抱えているように視えた。