第6章 惑いの往く末 前編
午後八時半頃。
「はぁ、はぁ………っ」
夜の森を、ただひたすらに走り抜けて………。
屋敷から遠く離れた森の最奥に往き着いた頃、ヴァリスは漸く足を止めた。
急く心臓の上に指をあて、呼吸を整える。
「ここまで来れば、すぐには見つからないよね………、」
逃げるように屋敷を出て来たことに、仄かな罪悪感を感じてはいたが、
本音をいえば、今は一人になりたかった。
(バスティン、………どうして、私なんかの為に、)
先刻から渦巻くような戸惑いと動揺が、未だ胸のなかで染みを広がらせている。
雲の狭間から仄かに降り注ぐ月灯りだけを頼りに、とぼとぼと歩いていく。
灰色にさらに黒曜を重ね合わせたような、濁った空の下で、ヴァリスは唇をかんだ。
(私は、誰かに愛されてはいけないの)
あの夜のことが眼前に甦るようで、慌てて首を振る。
(駄目ね、………私は。心の何処かで、彼の言葉が嬉しいと思っているんだから)
思わず苦笑してしまいそうになりながら、母と最後に過ごした、あの幸せな時間を繙く。
シロツメクサの花の園で、花冠を作り、
マリスと戯れ、母とともに作ったフルーツサンドを食べて。
(……あの日は、本当に楽しかった)
その夜にあんな事が起きるなんて、少しも想像していなかった。
思い出は、その彩色の美しさほど鮮烈で、だからこそ忘れられなくて。