第9章 本編 第16章 文豪ストレイドッグ
「徳冨……健、次郎……」
姿なき者の名を呟く男は一歩、また一歩と足を動かす
そして、香りが途切れた場所を前に、手を伸ばそうとした刹那ーー唐突に留まっていた香りが増した
先刻よりも感じる濃厚な香りが男の鼻腔を擽ると、胸の中で何かが壊れるような、得体の知れない感情に呑み込まれた
その瞬間ーー男は視界が滲み、歪んでゆくのを感じた
しかし、それを男が疑問に思う間もなく、血の痕を残しているタイルへと伸ばそうとしていた手の甲には濡れた感触があって、其方へ視線を向けると幾つもの水滴が落ちてきた
館が古びているために、雨漏りでもしているのかと一瞬思った……
「社長……?」
しかし、傍で傍観していた青年が"男の異変"に気がついた
歩み寄ってきた青年が徐に男の顔を覗き込んで、眼を見張らせた
否、違うーー
ーー雨漏りをしているのかと思った水滴は涙で、
「泣、いて……るの……?」
涙を流しているのは、男だったーー
「っ……!」
男の瞳からは熱い涙が後から込み上げてくるように溢れてくる
知らぬ内に溢れて、流れてきた涙は幾度も幾度も……頬を伝って、止まらなかった
頬が涙で濡れてゆくことを、漸く自覚した男は途端に、次々と込み上げてくる気持ちに、想いに膝から崩れ落ち、時折、血の痕が残るタイルを撫で、"この気持ちの持主である彼"を想いながら声もなく、流れるがままに涙を流し続けたーー