第1章 8月の夜
ふつふつと湧いてくる名前の付けられない感情が暴走し始めた途端、ギュッと抱き締められた。
兄貴の死からこの得体の知れない感情に度々支配されそうになっていた。
そんな時はいつも彼女に電話をすると、すぐに駆け付けてくれ慰めてくれていた。
一晩中抱き締めてくれる事もあれば、俺の思うがままに抱いた事も何度だってある。
そんな俺に一言も文句も言わず優しく包み込んでくれていた。
「大丈夫だよ。私はずっとここに居る。もしも万次郎と行く道が違っても、私は来年の今日も、おばあちゃんになった今日もここに居る。…どうしようも無くなったら、ここに来てよ。」
「さくら…。」
「その代わりね?ここに来るときは婚約指輪持ってプロポーズしなきゃダメだよー?」
「婚約指輪?」
「うん、私はそれだけの覚悟を持って待ってるからって意味。」
「はっ、なんだよそれ。そんなに俺と結婚してぇの?」
「したいよ?」
「なら約束な。俺がどうしようもなくなったら8月20日にここで叱ってくれ。その時は俺と結婚しよう。」
「約束だよ?本当は違った道に行かないでプロポーズして欲しいけどねぇ。」
「………。」
俺は何とも言えずに腰に回した腕に力を込め抱き寄せた。
ずっと一緒に居たい気持ちはあっても、今のままでは簡単に約束など出来なかった。
「なぁ、その浴衣さ。スッゲェ似合ってる。綺麗だな。」
「えっ、万次郎?」
俺は雰囲気を変えようとニッと笑って目を合わせると、彼女に口付けた。
一瞬ビクッと身体が跳ねたが、俺の舌を受け入れ、やがて力が抜け始める。
目を潤ませ俺を見つめるその顔を見て、いつも満足感に充たされるのだ。