第243章 少女
日が落ちる頃のトロスト区。
兵舎からその部屋までは、少し薄暗い道を歩く。
――――エルヴィンを失った傷の癒えなかったナナの手を引いて、巣箱のような部屋に帰った日々を思い返す。
しばらく誰もその鍵を開けなかった扉は、もともと古びていて軋む音がしていたが……一層ぎぃぃ、と大きな音を立てて開いて、久しぶりに外の空気を飲み込むように引き込んだその部屋は、ふわ、と微かに紅茶とナナの、匂いがした。
「――――………。」
当たり前に何も変わっていない。
あのただの日常を繰り返していた頃のままだ。
まるで時間が止まったようなそこに、ナナだけがいない。本来なら埃まみれのその部屋に……足を踏み入れることすら躊躇っただろうに、その時の俺はナナの匂いに誘われるようにどさ、とベッドに体を沈めた。
二つ並んだ枕に、頭を預けて俺を愛おしそうに見つめるナナはそこにはいない。
熱しきれてもいないフライパンに、不器用に卵を割り入れて殻の入った目玉焼きを一生懸命に作るナナはそこにはいない。
着替える時にはらりと現れる白い肌に唇を添わせると、小さく抵抗しながらも甘ったるくキスをねだるナナは、そこにはいない。
こうやって思い出せば出すほど、この先の選択が苦しくなるのに。わかっていても、思い出さずにいられない。あの束の間の幸せすぎた日々に逃避するように、俺はその巣箱に閉じこもった。
そして数日が過ぎたある日の夜。
きし、きし、きし、と階段を用心深い足取りで上がる音が聞こえて、扉の外から俺を呼ぶ声がした。
「――――兵長……?いるんですか?」
その声は、アーチだ。俺を探してここまで、来たのか。
「――――なんだ。」
「………よかった……。」
ぐす、と鼻をすするような音がした。どいつもこいつも……とんだお人好しだな。無遠慮にその扉を開けるのかと思ったが、アーチはそうしなかった。
ただ扉越しに静かに、言葉を残していった。
「兵長……今日はもう遅いので帰ります。でも、俺また来ますから!」
「………好きにしろよ。」
「……はい!」
階段を上がってきた時よりも少し軽やかな足取りで、アーチは去って行った。