第186章 海
ハルが馬車に乗って去ってから――――、ナナは俺に目を向けなかった。気まずそうに目線を落としたまま、俺の手からその小さな手を引き抜こうと腕を引いた。
「あ、じゃあ行きましょうか……。馬を借りないと、私……。」
その手を放さないと意志を込めて、ぐっとナナの手を握る。ナナは驚いたように繋がれたその手を見つめたまま目を開いた。
「必要ない。このまま抱いて行く。」
「えっ……!」
ナナをひょい、と抱き上げて、建物の裏手に繋いでいた馬に乗せる。久しぶりにナナを背中から抱いて馬に乗ると、ナナの背中からとくん、とくんと小さな鼓動を感じる。
――――あぁ、ここに……今俺の腕の中に、生きているんだなと思うとたまらず……腰を抱き寄せて首筋に鼻先を埋める。長かった髪が切りそろえられているから、そのすらりとした白い首筋が簡単に髪の隙間から覗く。
ぴく、と身体を反応させたかと思うと、ナナの耳がみるみる赤くなっていく。
――――変わらねぇな、こういうところは……いつまでも可愛いままだ。ふ、と小さな笑みをこぼしてから、手綱を引いた。
「――――今日はとりあえずシガンシナ区までの移動を目指すぞ。」
「はい……。」
俺達は馬を駆って、トロスト区からウォール・マリア区内を駆けて……シガンシナ区を目指した。道中では鳥が俺達の頭上を横切る。ふとナナは空を見上げて、その空に小さく手を伸ばした。
「………どうかしたか?」
「………病院の窓から見る空よりも、広くて……綺麗……。」
「―――そうか。」
一年ぶりに会えたというのに、ナナがやはりどこか一線を引いていて……俺達は大した会話もないままシガンシナ区を目指した。聞きたいことは山のようにある。
が、いい。
こうして触れているだけで……時折ナナが遠慮がちに俺の方を振り返って、その目に俺を映すだけで……心臓が持っていかれそうな、苦しいような……痺れるような感覚になる。
この感覚はこの世で唯一、ナナだけが俺に与えられるものだ。