第85章 逢瀬 ※
「………さてナナ、もう時間切れだ。」
「ええ………。」
「君はいつもここに来ると、帰りたくないと駄々をこねるな。」
「だって、ここが好き………。まるで違う世界に来たみたいな、異空間に感じる……。」
素直なナナの言葉に、マスターが嬉しそうに小さく微笑んだ。
「でも駄目だ、もう酔ってるしな。じゃあマスター、また来ます。」
「ああ、ぜひ。」
「……マスター、ごちそうさまでした。」
一時の特別な時間を過ごした異空間から現実に引き戻すように扉を開いて外に出る。
店の外で、ナナを帰すための馬車を止めようとすると、ナナが俺の腕を引っ張った。
「…………。」
「ナナ、どうした?気分でも悪いのか?」
両手で俺の腕をぎゅっと掴んで、俯いたままだ。酔いがまわったのかと顔を覗き込もうとすると、小さく彼女は我儘を言った。
「――――帰さないで……。」
「………ご家族に心配をかけないか?」
ナナは小さく頷いた。
こんな小さな我儘を言うのに、どれほど彼女は勇気を振り絞ったのだろうと想像すると、愛おしさが増す。
「――――まだ、一緒にいたい………。」
「――――俺もだ、ナナ。」
ナナを強く抱きしめると、俺の背に腕を回して、安堵したような顔をする。
「おいで、宿に帰ろう。」
手を固く結んで、街灯が照らす夜の道を歩く。
特に会話もないのにただその時間が幸せに感じるのは、彼女がまるで俺が側にいることを確かめるように、蕩けた目で時折俺を見上げて微笑むからだ。
俺はこんなに美しく愛おしいものを手に入れてしまったことを、小さく後悔すらしそうだと思った。