第5章 梵天の華Ⅰ
「…ご馳走さま、でした」
「ん」
「……あの、」
「あ?」
「…お名前、聞いてもいい、ですか…?」
鶴蝶から手渡されたパジャマのズボンを握りしめ、緊張した様子で静かに問う女。
寝癖が酷いボサボサの髪を見つめながら、そのうち誰かに髪切らせるか、なんて思いながら口が勝手に動いた。
「三途だ」
「さんず、さん…」
「三途春千夜」
「…さんずはるちよさん」
「春千夜でいい」
「…はる、ち……ぇ、え?」
横から女の視線を感じるけどテレビから目をそらすことなく、平然と足を組み直す。
別に意味はない。
何となく、苗字じゃなくて名前で呼ばせたかった。
「蛍よォ」
「えッ?…ぁ、はい…」
「家に帰りたいと思わねぇの」
「……ぃ、家…ですか…」
口ごもる蛍に気づかれないように一瞥する。
俯き、指の腹同士をくっ付けて遊び、答えに迷っているようで。
聞かねぇ方が良かったか、なんて自分らしくもないことを思った。
「…ここに、いてはいけませんか…?」
蚊の鳴くような声に、思わず目を見開いて蛍を見た。
目が合い、ただ黙って見つめる。
コイツ…ここに居たいってことか?
いつ殺されるかわかんねぇのに、ただ蕪谷組との取引で役立つかもしんねーから、そのダシにするために置いてるだけなのに…居たいって??
誰もが恐れる犯罪組織、梵天に?
「……んなの、オレの一存でどうこうならねェよ。首領の考えが全てだ」
事実を伝えるしかない。
いや、それ以外に答えがないからだ。
マイキーが生かすと言ったから、解熱剤を飲ませたし飯も食わせている。
逆に、マイキーが殺せと言えば間髪入れずに殺すのだ。
オレらの主導権は、梵天の首領である佐野万次郎ただ一人。
「首領が生かすッつったから生かしてる。殺せと言われたらお前を殺す。それだけだ」
「…ふふ、…春千夜さんは、一途なんですね」
「…マイキーはオレの王だからな」
下から覗き込むようにオレを見つめ、やんわりと口角を上げる蕪谷蛍。
化粧臭くなく、作り笑いをしない女とこうして会話をしたのは、いつぶりだろうか。
…マァ、掘り起こせる記憶の中でいくら探しても、こんなの経験したことは一度もねぇンだけど。
第6章に続く。