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3月9日  【A3】

第1章 寒桜


 寒さが厳しいこの街にもやっと春がきた。

 本州に比べてのんびりときた春に、ホッとしたような寂しいようなそんな気持ちがしている。

 「それにしても、寂しくなるよ…」

 親心に似たものなのか、私を慈しむように、視線を向ける眼鏡の奥。

 「そう言っていただけるなんて、光栄です。
 私の我儘で、今まで本当にありがとうございます。
 大家さんのおかげでここまでやってくることができました」

 「礼を言ってもらえるほど、わしは何もしてやれなかった。
 …弟さんのことも」

 一瞬、目を伏せた目の前の男性は、このアパートの家主である大家さん。

 肉親ではないけれど、

 誰よりも、私を見てくれていた。
 誰よりも、支えてくれていた。

 私の父親代わりと言っても、過言ではない。

 「十分すぎるくらいです。

 いつか、あの子が見つかったら、

 また挨拶に伺います。
 …あの子を連れて。」

 「そりゃ、長生きしないといけないなぁ。
 ここの部屋は空けておくよ、…辛かったらいつでも帰ってきなさい」

 誰よりも深い愛情と優しさで、私をまっすぐ育ててくれた。

 「…っ、はい」

 幼い頃から慣れ親しんだアパートは、私が住んでいた部屋以外は、もう誰も住んではいない。

 昔、白かったはずの外壁は、薄汚れていて、時の流れを感じるほどだ。

 手すりに伝う蔦の葉に、ところどころ茂る苔。

 大家さんも現役の頃に比べて、すっかり腰が曲がり、より一層優しい目元になったなんて、少しだけ失礼なことを思う。

 「いってらっしゃい」

 ここを出てしまえば、

 帰る場所を無くしてしまう私を気遣うようにして、

 "さよなら”

 以外の言葉をくれる大家さんに、

 我慢していた涙が、溢れそうになるのを見られたくなくて、

 記憶の奥底にある、あの子の笑顔を真似た。













  


 「行ってきます、大家さん」
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