第1章 寒桜
寒さが厳しいこの街にもやっと春がきた。
本州に比べてのんびりときた春に、ホッとしたような寂しいようなそんな気持ちがしている。
「それにしても、寂しくなるよ…」
親心に似たものなのか、私を慈しむように、視線を向ける眼鏡の奥。
「そう言っていただけるなんて、光栄です。
私の我儘で、今まで本当にありがとうございます。
大家さんのおかげでここまでやってくることができました」
「礼を言ってもらえるほど、わしは何もしてやれなかった。
…弟さんのことも」
一瞬、目を伏せた目の前の男性は、このアパートの家主である大家さん。
肉親ではないけれど、
誰よりも、私を見てくれていた。
誰よりも、支えてくれていた。
私の父親代わりと言っても、過言ではない。
「十分すぎるくらいです。
いつか、あの子が見つかったら、
また挨拶に伺います。
…あの子を連れて。」
「そりゃ、長生きしないといけないなぁ。
ここの部屋は空けておくよ、…辛かったらいつでも帰ってきなさい」
誰よりも深い愛情と優しさで、私をまっすぐ育ててくれた。
「…っ、はい」
幼い頃から慣れ親しんだアパートは、私が住んでいた部屋以外は、もう誰も住んではいない。
昔、白かったはずの外壁は、薄汚れていて、時の流れを感じるほどだ。
手すりに伝う蔦の葉に、ところどころ茂る苔。
大家さんも現役の頃に比べて、すっかり腰が曲がり、より一層優しい目元になったなんて、少しだけ失礼なことを思う。
「いってらっしゃい」
ここを出てしまえば、
帰る場所を無くしてしまう私を気遣うようにして、
"さよなら”
以外の言葉をくれる大家さんに、
我慢していた涙が、溢れそうになるのを見られたくなくて、
記憶の奥底にある、あの子の笑顔を真似た。
「行ってきます、大家さん」