第2章 杏子色に導かれて〈不死川実弥〉
「…もう全部なかったことにしよう」
かれんはそう言った。
恋人から婚約者になった彼に、静かにそう告げた。
「…ごめん、俺…やっぱりかれんとやっていける自信ない…」
「…もう、いいよ。終わりにしよう」
その恋人とは大学時代から四年ほど付き合っていた。歴代の恋人の中で一番長く付き合ってきて、お互い社会人になりそろそろ結婚しようかと、彼にぽつりと言われたのだった。
かれん自身、彼と夫婦になれることを心から喜んでいた。彼とは考え方も趣味の傾向も似ていて、喧嘩もほとんどしたことがなかった。寧ろ笑っている記憶しかないぐらいだ。お互いの両親もこの結婚をとても喜んでくれていた。かれんは、彼の妻になるということを少しずつ実感し、幸せの絶頂に浸っていた。彼と生涯寄り添う関係になれたのだと舞い上がり、まだ指輪がない左手の薬指にときめいていた。
それなのに突然、結婚すると話しが進んだ途端にこんなことになってしまった。否、突然ではなかったのかもしれない。何処となく、この関係には終わりがくるようになっていたのかもしれない。運命の相手は本当に存在するのだと、自惚れていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。そして恋愛と結婚は全く別物となんだと思い知らされた。
どんなに考えても、こうなってしまった理由は何一つ分からず、婚約者と関係を絶った後、かれんは茫然と変わり映えしない日常にただ流されていった。
・・・
『次は中目黒──中目黒──、乗り換えのご案内を──…』
(いけない…。駅、とっくに過ぎてた…)
最寄りの駅を疾うに過ぎていた。指の隙間から砂が溢れていくように、かれんの日々は色も音も残さずに物凄い速さで過ぎていく。
彼との毎日は、当たり前のように続くものだと思っていた。しかしそれは跡形もなく目の前から消え、言い表せない淋しさと虚しさだけがかれんの心を蝕んでいった。
かれんは咄嗟にその駅で降りた。心身ともに脱力しているのが分かった。重たい足取りで反対のホームへと歩いていた時、ふと友人が勧めてくれたバーのことを思い出した。男女問わず一人でも気軽に入りやすい店とのことで、知る人ぞ知る店らしい。
かれんは思い立つようにその足を止め、ぐるりと向きを変えてそのバーを目指し改札口を出た。
・・・