第1章 触れた髪
「今日は本当にありがとうございました。
もし安土で困ったことがあったら、どうぞ遠慮なく頼って下さいね」
礼を述べてお辞儀をする。
謙信「安土に攻め入ろうとしている敵将に何を言っている」
「敵でも恩があるなら返すのが筋というものです。
見返りも裏も何も求めませんし、ありません。信用してください」
謙信「力ない細腕で何ができる。せいぜい佐助のために己の身を守り抜け」
心なしか寂しげな色を漂わせ、背を向けて行ってしまおうとする。
言い様もなく寂しくなって、つい呼び止めた。
「あの!謙信様」
謙信「なんだ」
歩みを止め、謙信様がこちらを向いた。
黒い外套が宵闇に溶け込んで、今にも見えなくなってしまいそうだ。
儚い姿を……一瞬でいい。引き留めたいと思った。
「いつかまた、お酒を飲んでもらえませんか。
お話ししていないことがあるんです。今度聞いてもらえますか?」
次に会った時は、私が織田軍の人間であることを打ち明けたいと思った。
正直に話して、それでも許されるなら今日のようにお傍に居させてもらいたい。
謙信「……」
(断られちゃうかな)
一瞬押し黙ってしまったけれど、謙信様は表情を和らげてくださった。
謙信「ああ。機会があれば共に飲むのも一興だ。
俺の心の内を知りたいのなら、お前の『話していないこと』を聞いたら話してやらなくはない」
柔らかな表情に胸が高鳴り、頬が熱くなった。
(私、凄く惹かれてるんだ。心臓がドキドキしてる)
酔いとは違う、フワフワした甘い心地に胸がいっぱいになった。
「次を楽しみにしますね!お気をつけて」
お辞儀をした方が良いかと思ったけれど、友達や同僚にするように手を振った。
…私なりに距離を縮めたつもりだ。
謙信様は咎めもせず、目を細めた。
口角が少し上がって見える。
謙信「急な知らせで俺と佐助は明日越後に帰る。次回は早ければ年末だ」
それだけ言うと、今度こそ暗闇に姿を消してしまった。
「謙信様…」
胸が疼き思わず胸の前に手をやった。
「どうしよう。凄い…ドキドキする」
いつまでもおさまらないときめきを抱えながらお城に帰ると、案の定、秀吉さんと三成君が門の外で待っていてくれて、おおいに心配されてしまったのは言うまでもなかった。