第8章 看病六日目 道ならぬ恋
「えー…、そうだ。お昼に食べたのは天ぷら蕎麦っていうんですけど、お酒が好きな人はお蕎麦を抜いた『天ぬき』というものを好むんですよ」
唐突に『天ぬき』の話になり戸惑ったが、酒好きが天ぬきを好む理由がわかってしまった。
謙信「酒を飲んでいる間に蕎麦が不味くなるから、か」
「ふふ、正解!流石ですね。
私の祖父は結構な大酒飲みで蕎麦屋に行くと必ず天ぬきを頼んでいました。
おつゆの中に天ぷらしか入っていないので、幼心に変な料理だなと思ったものですが……お酒が好きな謙信様には天ぬきにした方が良かったでしょうか?」
謙信「ふっ、お前が丹精込めて作った蕎麦を抜くなどありえない。
食事で腹が満たされているせいか不思議と酒を飲む気にならぬしな」
この長屋にひきこもってからは、一度だけ酒を頼んだことはあったが、餃子と一緒に出されるまで一滴も飲んでいない。
我慢というよりも飲みたいと思わなかったというのが正しい。
舞が心配そうに聞いてきた。
「もしかして食事の量が多すぎましたか?」
謙信「いや、そんなことはない。以前は酒を飲んでも飲んでも渇きが癒えなかったがここ数日は……」
言いかけてハッとした。
(渇いていない)
後悔の念に足をとられて真っ暗だった胸の内は、舞の言葉で全て取り払われた。
胸にあるのは温かな風と、明るく照らす光、それと菜々子がくれた優しさで…潤っている。
そして気づけば瑞々しいものが芽吹いていた。
(これは、なんだ……)
恐る恐る目を向けると、とっくの昔に捨て去った感情があった。
他人を恋慕う『恋情』
いつこの想いが芽生えたのかわからなかった……
(俺は舞を好いていたのか…っ)