第81章 不思議な夢
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豊臣秀吉は死期が近づくと五大老を呼び秀頼をくれぐれも頼むと言い、忠誠を誓わせた。
ところが数日後、親族含め、集められる限りの家臣を大広間に呼び寄せると、前言撤回し秀頼を徳川家康に託すと宣言した。
その折『秀頼が立派な人間となるよう導いて欲しい。しかし秀頼に天下を背負う器がなかった時は、日ノ本を治める権限を豊臣家から徳川家に譲る。この場に居る全員を遺言の証人とする』と言い残し、没した。
驚きのあまり淀の方はその場で卒倒し運び出され、
『病は殿の頭まで蝕み、判断を鈍らせたに違いない』と遺言を否定していたとされる。
実際淀の方は遺言を無視し、幼い秀頼を天下人の座に座らせた。
正室のねねは秀吉の臨終の場に姿を現さなかったため淀の方に強く非難されたが、石田三成が『殿の死が近いのを知り、心痛で臥せっておられた』と間を取り持ち、事なきを得た。
しかし秀吉の遺言を無視した淀に対しねねは猛反対し、後々まで対立したと言われている。
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「あと、この部分も変わっているんです」
私は睫毛についた涙を拭いながら、秀吉さんの子についての記載を指差した。
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秀吉の実子、秀頼には数々の逸話が残されている。
大阪の戦で淀の方と自害したという説が有力だが、実は秀吉が没する前、秀吉の手によって出奔(しゅっぽん)させられ、自害したのは影武者だったのではという逸話が残されている。
江戸幕府を開いた徳川家康には優秀な人材が多く居たが、影ながら家康を支えた時継(姓は不明)という名が残っている。
秀吉の生き写しのような見目をしており、生き延びた秀頼なのではないかと噂が絶えなかったという。
時継の詳しい記録はほとんど残されておらず、豊臣家を哀れに思う人々が作り上げた、架空の人物とされている。
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