第80章 豊葦原千五百秋水穂国
光秀「いきんでも良い頃合いだが、まだ準備が整っていない。少し我慢できるか」
「はい、頑張ってみます」
琥珀の瞳が柔らかに細められたのは一瞬で、すぐにいつも通りの光秀さんだ。
指を静かに引き抜くと、清潔な布やさらしが入った籠を引き寄せ、てきぱきと手際よく並べている。
それが終わると『お湯を見てくる』と足早に去っていった。
二人きりになった部屋でほっと息を吐いた。
「謙信様、ありがとうございます。
光秀さんに診てもらったら赤ちゃんの場所がわかって安心しました」
謙信「それは良かった。だが俺は刀の柄に手がいきそうで仕方がない。
お前の感触を知るのは俺だけだというのに」
「でも前回の妊娠の時、主治医は男性でしたし、指を入れられたり、機械をいれられたりしましたよ?
出産の際にできた傷を縫合してくれましたし…」
謙信様の瞳に剣呑な光が浮かび上がったけど、すぐに消えた。
仕方ないと諦めたようだった。
「こういう場合でなければ謙信様以外の男性に触られるのを許しませんから、安心してください」
謙信「『こういう場合』がそう何度あっては困る。産婆はまだ来ないのか」
苦々しい顔で謙信様が文句を言った時に、ググっと産道を押し分けて出てこようとする感覚に驚いた。
陣痛の波と一緒に圧迫感が増し、いきみたくなる。
(でもまだ、光秀さんが来ない……)
謙信「舞っ、苦しいか。待ってろ、明智を呼んでくる」
「謙信様、行かないでっ、く、ださい…」
立ち上がった謙信様の手を引っ張る。
「一人にしないでください、傍に居てください」
謙信「っ、わかった、わかったから泣くな」
謙信さんが困り顔で腰をおろした。
「だ、だって……」
一人にされてしまうという心細さが半端なく襲い掛かってきて泣きたい。
……でもお腹の痛みがそれを許してくれなかった。