第80章 豊葦原千五百秋水穂国
「謙信様。子供をとりあげるのは光秀さんにお願いして、謙信様には今のように手を握っていて欲しいです。
私が呼吸できなくなったら、傍で手伝って欲しいです。
痛みで気を失ったら起こしてください。
謙信様が赤ちゃんにかかりっきりになったら私は一人になってしまいます。
寂しいので、私の傍にいてもらえませんか?」
もう限界だった。
お医者様も助産師さんもいない、何かあっても薬もない。
10か月近い妊娠生活で赤ちゃんの様子を知ることもなく、自身の健康状態がどうだったかもわからなかない。
何もない。
そんな場所で、過去の出産を思い出しながら気力ひとつで乗り切ろうと思ったけど……心が折れそうになった。
二色の瞳が驚きで見開かれ、次には両の手を握られた。
震えて力ない手を、しっかりと強く握ってくれた。
謙信「そう言われてしまえば俺は断れない。
お前の命は何よりも大切だ。その願い、聞き入れよう」
謙信様がやっと納得してくれて、立ち上がった。
外で待っている信長様と光秀さんを呼びに行ったのだろう。
その間にまた陣痛の波が襲ってきた。
(いきみたい……)
いきむタイミングを教えてくれる助産師さんも産婆さんも居ない。
子宮口が全開になっているのか、赤ちゃんの居る場所がどこなのか、いきんで良いのか、何もかもわからない。
不安が渦巻く中、空気がふと動き、冴え冴えとした香りが鼻を掠めた。