第78章 過去からの来訪者
「今日は気分がいいから、久しぶりに海が見えるところまで行きたいんだけど良いかな?」
軽く済んだ悪阻だったけど、少し長引いてしまった。
そのせいで海の近くに住んでいるのに、ずっと海を見ていない。
蘭丸「四半刻(30分)は歩くけど大丈夫?」
「うん、大丈夫。無理そうだったら途中で引き返すね」
蘭丸「無理は絶対だめだからね。あとひと月足らずで臨月なんだから」
「わかってるよ、絶対無理しない。皆が楽しみにしてくれるんだもの」
草履を履き終えて立ち上がると、蘭丸君が手をとってくれた。
現代と違い、どこもかしこも舗装されていないので、散歩の時は手を繋いでもらっていた。
ゆっくりした足取りで海へ続く道を歩いた。
「朝日が眩しいね~!昨夜は突然雨が酷くなったから心配したけど、今日はいい天気!」
道端の草花が昨夜の名残で水滴を纏ったままだ。
蘭丸「俺の家なんて、雨漏りしたんだよ!
桶を置いたんだけど、雨が降り止むまでずーっと『ピチョーン、ピチョーン』ってうるさくてさ、ちょっと寝不足なんだ」
寝不足と言いながら、蘭丸君の表情ははつらつとしている。
夏の日差しを受け、薄桃色の髪が綺麗に輝いている。
「寝不足なのに海に行きたいなんて言ってごめんね、行き先変更しようか?」
蘭丸「気を使わなくてもいいよ舞様。
俺、ここに来てからよく眠れるようになったんだ。一日くらい眠れなくても全然平気」
安土に居た頃は信長様と顕如様の間に挟まれ、心痛もあっただろう。
刺客や斥候に神経を尖らせていただろうし…。
(若いのに、凄く苦労してきたんだろうな)
「蘭丸君はここでの生活は幸せ?帰りたいなって思う時、ない?」
蘭丸君は一瞬言葉に詰まって俯くと、耳飾りがシャランと小さく音を立てた。
蘭丸「顕如様に俺が生きてるって、それだけは伝えたいって時々思うんだ。
でも30年後のこの時の流れに顕如様は…亡くなってる。
だから伝えられない。
本能寺で死ぬ運命だったなら、そのまま受け入れるしかないかなって」
蘭丸君が寂しそうに笑った。