第71章 謙信様との逢瀬
謙信「あの簪はこの店のものなのか?」
声をかけると、店の女は簪を見て頷いた。
女「あれは母が大事にしていたものです。この店を開いた時に『この簪がひとつだけ浮かないよう、店に美しい品を揃える』と言って、あそこに飾ったそうです。
申し訳ありませんが売り物ではありません」
謙信「いや、欲しいわけではない。あの簪は蝦夷で作られたものではないだろう?あれは越後で作られたものだ」
正直、顔は覚えていない。
伊勢と同じくらいの歳だったことくらいしか記憶にない。
何故ならあの女の目を塞ぎ、敢えて見ないようにしたからだ。
あの簪は俺が伊勢に贈るために作らせた簪。
女「まあ!一目見ただけでよくおわかりになりましたね。両親は元々は越後に住んでいたそうです」
「………俺も以前越後に住んでいた」
女「この地で越後に住んでいた方と出会うなんて!母が聞いたら驚くと思います。
なんでも若い頃、身分のある男性と無理やり、その…夜を共にするように言われたそうで…」
話しづらい内容に娘は言葉を途切らせた。
謙信「…それで」
女「その身分のある男性は母を助けてくれて、あの簪を売って生活をたてろと言ってくれたそうなんです」
そうだ、あの時確かにそう言った。
あの簪を売れば数年は暮らしに困らないだろうと持たせてやった。
俺のような男に無理やり身体を差し出され、そうなったのは俺のせいだと詫びのつもりで。
謙信「売らなかったのだな…」
女「ええ。その男性は恋仲の人を亡くした直後だったそうで、きっとあの簪は大事な人に贈る物だったのだろうと思ったそうです。
気持ちのこもった大事なものを売って、自分が楽をしようとは思わなかったと言っていました」
謙信「お前の母はどうしている?」
娘「5年前に病で亡くなりました」
俺より年若だったはずの女。
手柄を立てた大名が、娘を俺の室にいれたいと画策して閨に忍ばせた…
それがこの女の母だ。
当時恋仲が居ると言っていたが、夫が越後の人間だというなら、あの後添い遂げたのだろう。
大名に愛想を尽かし『越後を出る』とは言っていたが、まさかこんなにも遠くの地に来ていたとは……。
巡り合わせとはよく言ったものだ。