第1章 触れた髪
佐助君は音もなく立ち上がったけど、急に動きを止めてこちらを振り返った。
「謙信様のことだけど、ああ見えて悪い人じゃないんだ。
信じてもらうのは難しいかもしれないけど、頭の片隅に留めておいて」
(なんだかんだ言われても結果的に命を助けてもらった事に変わりはないし、感謝してる。
『斬る』って言われて怖かったけど、何より佐助君がそう言うなら…)
「わかった。覚えておくね」
佐助君の唇の両端がわずかに持ち上がった。
佐助「じゃあ今度こそ行く。あ、そうだ。
舞さん、香水をつけてる?
あの蜂は君の香水に反応して近寄ってきたんだと思う」
「香水…?あ、香水じゃないけど信長様からもらった香油かな」
南蛮の使者から献上された品の中にあったとかで『女が好きそうな香りだ。貴様にくれてやる』と貰い受けたものだった。
幾つかあった小瓶から、好きな香りを選ばせてもらって普段使いしていた。
私が好きなゼラニウムの他に、甘く爽やかな精油がいくつかブレンドしてあって気に入っていたけれど…蜂に刺激を与えたのかもしれないと思うとゾッとする。
「ありがとう。気を付けるね」
佐助「あの香り、舞さんに似合っていたよ。
この時期を避けて使用する分には良いんじゃないかな」
「そう言ってくれると嬉しいな。貰い物なんだけど気に入ってるの」
それからまもなく佐助君は帰っていき、私は寝仕度をして布団に入った。
「年明けか…」
嬉しいけど、ここで過ごした4か月を思うと寂しさも感じる。
安土の人達の顔が次々に浮かんだ。
最初は帰りたくてたまらなかったのに、たくさんの人達に支えてもらってここまできて、離れるのが惜しいとまで感じる。
(でも、帰らなきゃ。私はこの現代の人間じゃない。帰るまで、精いっぱい安土の皆のために働こう!)
私はその時まだ知らなかった。
一生に一度の恋を、この時代でする事に…。