第54章 曇
灰原…。
その単語に千夏は顔色を変える。
楽しそうな様子はどこかへ消え去り、スンッと…感情が消えた。
「…ごめんなさい。思い出させちゃって」
でも、と鈴木ちゃんは続ける。
「やっと…口に出せるようになったんです」
「…良かったね」
千夏は微笑もうとしたらしいが、上手くいっていない。
けれど、鈴木ちゃんは話を変えない。
「旦那には悪いけど…今も好きなんです」
「…いいんじゃない?」
「いいんですか?」
「いいと思うよ」
今度の微笑みはある程度上手くいったが、今度は声のトーンが単調になる。
「ははっ…やっぱり八乙女先輩、最高ですね」
「私、なんかした?」
「灰原先輩のこと、好きって言えるようになったのも、私がこうして笑っているのも。全部八乙女先輩のおかげです」
「…難しい」
「はい。一生分かんなくていいですよ。説明する気もないんで」
むず痒そうな…この顔。
この時初めて千夏の感情と表情が一致していた。
「…ほんと、無駄なことしたなぁ…。もっと先輩と話しておけばよかった」
「…突然だったからね」
「そうですよ。灰原先輩も、八乙女先輩も。皆突然居なくなっちゃうから…」
僕達は皆、大小構わず消失というものを経験している。
「今でも千夏はたまに消えるよね」
「マジですか?八乙女先輩、連絡くらいしないと」
「最近は連絡してます!」
はぁ。
やっと千夏の目が生き返った。
『私は特別だからね♪』
久しぶりにそんな言葉を聞き、少なくとも動揺した自分がいた。
望んでないのに特別扱いされ、低水準の生活を強いられてきた。
だから、自己防衛のようにこの口癖を逐一口にして…なんて。
これは僕の予想だけど、あながち間違えていないと思っている。
「先輩も丸くなりましたもんね」
「そう?」
「言葉遣いとか態度とか。大人になってます」
「…気をつけたからね。この年であんな感じだったらヤバくない?」
「八乙女先輩ならやばくないかもです」
「うっそ〜」
昔の千夏。
今の千夏。
不安定なのはどっちだと聞かれれば、即答してやる。
今の千夏は相当危ない。