第33章 紙一重
「…さ、とる」
千夏は弱々しい声で、僕の名を口にした。
体調の悪さを気にしたものの、千夏はそうではないと言って、僕の手を握ってきた。
「何で泣いてんの〜…」
千夏の両手で包まれた手はそのまま。
反対の手で千夏の涙を拭った。
「私……怖いよ」
千夏は僕の手をおでこに当てて、苦しそうに言った。
「幸せすぎて、怖い」
千夏は言った。
自分が幸せになると、必ずそれに見合った代償が訪れると。
何も考えずに欲望のまま過ごしていたら、自分の家族を失い。
自分を制御して過ごしていても、普通の日常を奪われた。
イレギュラーな生活にも慣れて、大切な人と過ごす幸せな時間が増えたら、その全てを失って。
その一部を取り戻し、新しい笑顔溢れる日常を手に入れた。
千夏はこの日常を失うのが、とっても怖いと言った。
次の代償に耐えられる気がしないと。
「何で日常が壊れる前提なのさ」
「絶対、壊れる。壊れないわけがない」
僕がいくら否定しても、千夏は頑なにその仮説を否定しなかった。
「私…。もう何も失いたくない」
千夏は僕の手を使って上半身を起こし、僕の首に手を回した。
嗚咽が、鼻をすする音が、体全体に広がる。
空いた両手で千夏を優しく抱きしめた。
「だーいじょーぶ!」
千夏の背中を数回叩いた。
「絶対大丈夫。だから泣かないで?」
千夏は顔を上げた。
必死に涙を止めようとしている姿が愛らしい。
「泣き顔まで可愛いなんて、千夏ってば天使?」
「う〜〜…」
頬に手を当てると、千夏は口を歪ませて再び泣き始めた。
「千夏は偉いよ。頑張ってるよ」
「私もそう思ってたの。でも、遅かったの…」
「……どういうこと?」
「私が助けられるのは…”救われる準備ができてる人”だけ…」
僕はその言葉を聞いたことがあった。
11年前に僕自身の口から出たものだった。