第20章 響箭の軍配 参
「じゃあそろそろ戻りましょう。撤収の準備、手伝わないと」
歩き出した凪の背に結い上げた黒髪がふわりと踊る。光秀に背を向け、撤収が進められている陣に向かって足を踏み出した彼女の背を、光秀が衝動的に引き止め、背後から抱き締めた。
「わっ…!?み、みつひでさ…っ」
「─────本当に、」
突如背後から抱き締められた事に驚き、短い声を上げて光秀の名を呼びかけた凪の言葉を遮り、胸の上辺りへ両腕を回して抱き締めた光秀の低い声が耳朶を掠める。ひたりと密着させた身体は暖かく、簡単に閉じ込めてしまえる凪の髪へ瞼を伏せたまま頬を軽く寄せた光秀が、さながら何か深く念を押すかの如く囁いた。
「いいんだな?」
それは、ただ凪が元の世へ帰らないという、その決断を確認する為だけの問いではない。自分の中に芽生え、日に日に膨らむ欲が辿り着くその先を、言外に問うているかのようだった。胸の奥底から溢れた想いは次々に光秀を欲深くさせる。それを辛うじて抑え込んでいたのは、いつか凪が元の世へ帰るという、その事実ひとつ。だが、それが本当に失われるというのならば。
「い、いつも言ってるじゃないですか。私は自分で決めたら後悔はしません────…帰らないで、ここに居ます」
命を刻む、己の脈動が聞こえる。伏せていた瞼を緩慢に持ち上げ、光秀がその長い睫毛を微かに震わせた。ぬるい風が吹き付ける度に身体の熱を攫おうとするが、溢れる温度はそう容易に冷めてしまうようなものではない。否、もう冷める事などないだろう。
初めて凪の名を呼んだ時と同じく、風に揺らされた緑の葉がさわさわと揺らいだ。場所こそ違ったが、鼓膜を震わせる涼しげな音は何処であっても変わらない。回した腕にそっと力を込めた。名を呼ぶ事を躊躇わないと決めたあの日から変わらないものと、変わってしまったものがある。
自らを抱き締める光秀へ微かに振り返りかけた凪が、視界の端にほんの僅かだけ映った男の顔を映し、息を呑んだ。何処までも深い熱を灯した金色の眸が静かに眇められる。今この瞬間、己の心がすべて伝わらずとも構わない。それでも、言葉にせずにはいられなかった。
「お前がそう言うのなら、俺はもう躊躇いはしない」