第20章 響箭の軍配 参

宴の席で自分や家康達の前で目にした奇襲失敗の件は、光秀が奇襲の日と刻をずらした事により、何事もなく防げた。だが、凪が清秀と会うという事実は、変えようのないものだったのかもしれない。それこそ、毒を仕込んだ間者を始末してさえいれば、別の未来が待っていたのだろうが。
そこまで思考して、光忠はやりきれない感情を覚えた。分かっていて尚、防ぐ事の出来なかった感情とは、どれ程のものだろうか。自分だったならば、きっと。

（やりきれない己への怒りに、言葉も出ない）

二頭分の蹄の音が響き渡る森の中、近付いて来た見覚えのある景色に面持ちを引き締め、手綱を握る指先へ力を込める。険を含めた金色の双眼を眇め、開けた空間へ辿り着いたと同時、光秀は咄嗟に馬を停止させる為、手綱を強く引いた。
短い嘶き(いななき)と共に馬が軽く足踏みをして立ち止まる。雨の所為でしっとりと濡れた髪を払う事もなく、頬やこめかみから伝う雫を拭う事すら出来ず、光秀はただ一点を見つめていた。

最初に映ったのは、凪の華奢な背。
見た事もない濃い桃色の簪は、おそらくまたあの男に挿されたものだろう。次は腰、動かぬよう拘束の意図で回された男の腕に、抵抗なく収まる彼女の身体は、微かに震えていた。
そして、片方の衿を大きく乱した事により覗く、なだらかな肩の線と、凪の肌に吸い付く、男の…─────。

「………っ」

それはほとんどが衝動といって差し支えない行動だった。
片手を流れるような所作で懐へ入れ、そこから一本の小刀を手にした光秀が一切の躊躇いなく投げ放つ。
ひゅん、と空を切る短く鋭い音が雨滴を真一文字に横切り、勢いを殺さぬまま、顔を上げた男の頬と横髪を一房裂いた。血色が決して良いとは言えない白い清秀の頬へ、一筋の赤が細く伝う。かん、と乾いた音を立て、廃寺の欄干に小刀が突き刺さった。

「………その娘から離れてもらおう」
「待って、光秀さん…っ」

押し殺した光秀の声と雨音だけが響く空間に、凪の微かに動揺を孕んだ声が重ねられる。制止されるとは思わず、眉間を顰めた光秀の目線がいっそうの鋭さを帯びて清秀を射抜いた。

「彼女の言う通り、離れる事は難しいな。何せ、今は交換条件の真っ最中だ」
「……ほう？」