第20章 響箭の軍配 参
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男は一人、薄闇の中に居た。
朝日が辛うじて昇っても尚、曇天が広がっている所為で光が遮られ、眩しい光は地上へ届けられない。昨夜中降りしきっていた雨の勢いは少しずつ弱まり、今では霧雨と呼ばれる程度のものとなっている。故に、朝と呼んで差し支えない刻限であっても、天幕内は薄闇に満たされていた。
その中で、ただ一人男は口元へ薄っすらと笑みを刻んだ。
机上に広げた地図の上、山が描かれたそこに配置された、朱色の駒。それをとん、と白い指先で叩き、木製独特のくぐもった鈍い音を響かせる。
「……人は、聞き飽きた明確な言葉はそこまで意識しないけれど、不明確なものは一度思考を巡らせる事もあって、大抵すぐには忘却しない」
誰に告げるでもなく、揶揄の色を含ませた艷やかな音を発し、再度とん、と駒を叩いた。長い睫毛の影を落とし、瞼を緩慢に伏せた男の口元が酷薄に歪む。肩から溢れる白藍色の長髪が一束、さらりと机上へ流れた。
「まして、警戒を高めた戦の最中であるなら尚の事、口にせずにはいられない」
人は不安が募ると音にして吐き出したくなるものである。じわじわと広がる毒のように侵食を広げ、やがてその身を食らい尽くす。まるで、この心を蝕み続ける甘い熱のように。
とん、と三回目となる音を立てて駒を叩き、男は静かに立ち上がった。優雅に着流しの裾を捌き、机の端に置いた陶器の小瓶と玉飾りがついた鮮やかな桃色の簪を取り、それを袂の中へと入れる。
「さて、そろそろ向かうとしようか。久し振りに会えると思うと、胸が踊るね。君もそうだと嬉しいな……芙蓉(ふよう)」
灰色の眼を僅かに眇めたその面持ちは、何処か恍惚としていた。人を嘲る意図の笑みではなく、本当に待ち侘びていたと言わんばかりの柔らかな微笑は、さながら逢瀬を待つ男のそれである。しかし、彼はすぐにそれを消し去り、瞼を伏せた。やがて一拍置いた後で緩慢に長い睫毛を持ち上げると同時、音を紡ぐ。
「いや、違ったな。今日は敢えて本当の名で呼ばせて貰おうか。ねえ…─────凪」