第19章 響箭の軍配 弐
金瘡医(きんそうい)のような真似事は出来ない為、器具を消毒する為の熱湯作りと軽傷者から中傷者までの処置、治療を終えた者の世話などを担っていた彼女は、漂う血の匂いにくらりと目眩がしそうになるのをぐっと堪え、鍋へ水を注ぐ。
初めて目の当たりにする戦の治療は、訓練で目にしたものよりも余程酷いものだった。これで致命傷が居ないというのだから、織田軍の兵の優秀さが色濃く窺えるというものである。
「凪、少し休んだら?…あんたにとってはこの匂い、結構きついと思うけど」
重傷者を金瘡医へ受け渡した家康が、手拭いで洗った手を拭きながら凪へ近付いて来た。振り返った凪は、気遣って貰った事を嬉しく思いつつも否定するよう首を左右へ振ると、口元へ微かに安堵させるかの如く笑みを浮かべる。
「ちょっとずつ慣れて来たから大丈夫。心配してくれてありがと」
「……別に、そんなんじゃない。動ける奴が減るのが痛手だと思っただけ」
「まったく素直でない御仁だ。先程から延々と凪の姿を目で追っている事に気付かぬとお思いか」
「お前は黙って湯を運べよ」
凪が気負いせず答えて礼を告げれば、家康はふいと顔を逸らして憮然とした面持ちへ切り替えた。天邪鬼な物言いにはさすがに凪も気付いており、そっと笑みを深める。そこに後方からやって来た光忠が湯で満たされた桶を持ちつつ、溜息混じりに言葉を投げかけ、呆れた調子で菫色の眼を眇めた。
家康の冷たい発言にただ肩を竦めた光忠は重傷者の処置をしている天幕へ向かって湯を届けに行く。彼の後ろ姿を眺めていた凪は、もう一息と言わんばかりに薬の補充をしようと備品置き場になっている天幕へ向かおうと身を翻しかけた。
「待って」
彼女とすれ違う間際、凪の片手首を咄嗟に掴んだ家康は、自らが何故凪を引き止めたのか、その理由をはかりかねて息を呑む。強くはない拘束に驚き、不思議そうな素振りで振り返った凪が首を緩やかに傾げた。
医療兵や現在出陣している者、光秀と共に行動している兵達とて、当然朝から働き通しであり、朝餉はおろかこのままでは昼餉とてまとも摂る事は出来ないだろう。