第19章 響箭の軍配 弐
微かに口角を持ち上げ、迫る兵を一人、また一人と斬り伏せつつ、信長は小さく呟きを落とす。責めるような色よりも、その策を愉しんでいると言わんばかりの姿は己の左腕の力を信頼しているからこその余裕だった。周りの状況を見回した信長は、一部の兵が背を向けて逃げ去っている様を既に視界に捉えている。斥候の報せにより、兵の数自体は自軍の倍だと事前に耳に入れてはいたものの、こうして戦っている内に程なく同数程度になる事を見越していた。
「信長様…!敵兵が一部逃走している模様です」
「気骨のない男に仕えるには命が惜しいという事か。懸命な判断だな。……勢いを適度に削ぎ、後は奮戦の振りを続けろ。決して手抜きなどと気付かれるな」
「はっ!」
伝令として状況を伝えに来た兵の一人が信長の傍に近付く。己の目算通り、敵軍で脱走兵が出ているという事実を耳にした男は鼻で小さく笑い飛ばした後、些か低めた声色で伝令役へ告げた。
「ご報告致します!敵兵の小隊が本隊から離れ、我が本隊を回り込み、麓へ向かっているようです。いかがなされますか!?」
「構わん、捨て置け。あやつ等は俺が手を下すまでもない」
「承知致しました!深追い無用と報せて参ります」
別の伝令がやって来て告げた報告に、ふと信長はちらりと何処かを見やり、笑みを深める。淡々と告げた簡潔な指示の意図をいまいち把握出来なかった伝令だが、信長の言葉に問いかける事も出来ず、すぐさま一礼した後で身を翻した。
奮戦の振り、とは光秀から事前に伝えられていた事である。
信長が戦へ自ら討って出ると告げる前から練られていたというこの策は、織田信長という人物が居てこそ成立するものだ。
光秀は信長が自らこの戦に参戦すると計算していたのだろう。何処までも食えない男だと笑みを深める一方で、信長は敵の出方と共に光秀の出方を窺いつつ、わざとじりじり後退して群がる兵達を一掃したのだった。
「………ほう?信長様も、なかなかに人を食わせる演技が上手いとお見受けする」
山の中腹、切り立った崖の上から平野の戦況を眺めていた光秀は、面白いものを見たと言わんばかりにくつりと喉奥で笑いを漏らした。光秀の傍、後方に立ちつつ同じように状況を眺めていた久兵衛は、主君の様子に些か困ったように眉尻を下げる。