第17章 月に叢雲、花に風

徳利を傾ければ、先程光秀や家康へ注いだ時と同じく芳醇な香りが鼻腔を擽る。仄かに甘いその香りは家康が独自で調香しているという菊花香にほんの少しだけ似ていて、凪は微かに口元を綻ばせた。満たされた事で改めて礼を言い、光秀が徳利を引くと共に器へ唇を寄せる。
薬酒と聞き、勝手に少し辛口のイメージを持っていた凪であったが、光忠が持参してくれたという菊酒はほんのりと甘い。口当たりの良い飲みやすさと、嚥下した時に鼻から抜ける香りがとても上品で、何となく光忠という男の雰囲気にも合っているような気がした。

「凄く飲みやすくて美味しいです…！」
「…確かに飲みやすい。俺が前に飲んだのは辛口だったけど、甘口も悪くないな」
「ですよね、私も辛口かなって思ってました。光秀さんが気に入ってたみたいって言ってましたけど、こういうのが好きなんですか？」

光秀が思った通り、凪の口にも合ったようで彼女は嬉しそうに声を上げた。香りの良さも相まって双眸がきらきらと心なしか輝いている。甘口である為、呑み過ぎてしまうというのが難点でもあるが、ある程度までは好きに呑ませてもいいだろう、と判断した光秀は凪の横顔を眺めた後で静かに瞼を伏せた。
凪から酌をしてもらった家康も薬酒が口に合ったらしく、些か驚いた様子で呟く。新しい発見をしたとばかりの面持ちを見て凪が同意しつつ、隣の光秀へ顔を向けた。

「ああ、そうだな」
「あんた、酒は水に味がついてる程度の認識だって前言ってましたよね」
「そんな事もあったか。よく覚えているな家康」
「そこそこの衝撃でしたから」

凪に問われるままに、さらりと嘘をついた光秀へ、すかさず家康の突っ込みが飛ぶ。まさか凪が喜ぶと思って気に入った風に見せていたとは言えない為、向けられた翡翠色の半眼をさらりと躱し、男は感心した様子で笑みを深めた。
料理の味もあまり分からないと言っていたが、よもや酒までそうだったとは。少なからず二人のやり取りを耳にして驚愕していた凪は興味を持った様子でずい、と盃を手にしたまま光秀へ近付く。

「え、本当にそんな感じなんですか？じゃあ辛いとか甘いとかも分からないとか？」