第15章 躓く石も縁の端
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翌朝────明六つを過ぎていない刻限は、いまだ御殿内であっても静寂に満たされている。
不寝番(ねずばん)であった者達が交代で引き上げて来たり、あるいは厨番となった者達が仕込みをしていたりと、案外家臣達は早い時分から行動をしているのだが、非番の者や長期の御役目を終えたばかりの者などを気遣い、彼らは常日頃、密やかに気遣いながら早朝の刻を過ごしていた。
光秀とてそれは例外ではなく、視察の任がある為、二刻前辺りに入った褥を出ると、自室へ向かって物音を立てぬよう身支度を始める。
先程抜け出た褥では、まだ穏やかな寝息を立てている凪が居る為、彼女の眠りを遮らぬよう、静寂に満ちる障子を閉め切った室内へ微かな布擦れの音だけを響かせていた。
早朝である為、まだ辛うじて室内は涼しさを帯びている。
障子紙から透けて通る眩い朝日は若干控えめであり、数日続いた晴天の気配はない。却ってその方が気温的にも行動が取りやすい為、光秀にとっては丁度良い、といったところだ。
(気温が高いとその分、馬の体力も消耗が激しい。雨に降られるのは厄介だが、曇りならばまだこの時期は動きやすいな)
手甲を留める白い細布を器用に片手で巻き、端を結ぶ。唇に挟み持った反対側用の布を取ると、右手へ同じ用に巻きつけていく。そうしておおよその準備を終えた光秀は、文机上に置かれた夜の間に用意した地図を折り畳んで懐へ仕舞い込もうとしたが、その瞬間正面の襖から小さな声が聞こえ、視線を向けた。
「…光秀さん?」
声量的に、閉ざした襖の向こうに居る自分ではなく、隣で寝ていたと思っていた相手が居ない事を怪訝に思って漏らした独り言のようである。
いささか寝ぼけたぼんやりした調子の無防備な声が名を呼ぶと、何とも言えぬ心地になるものだ。おもむろに立ち上がった光秀は地図を手にしたまま立ち上がり、懐へそれを仕舞いながら夜着用の羽織りを持つと襖へ手をかけた。
「凪、入るぞ」
返事を待たぬまま静かに開けた襖の先、そこに身を起こしていた凪を見て褥の傍へ片膝をつく。