第1章 序
内心突っ込みを入れつつ、流石に思うがままをこの場で口にする事は出来ない為、凪は眉尻を下げて軽く俯いた。
雷鳴が轟いたあの瞬間…───。
凪の意識は一瞬の内に暗闇に呑まれ、気付けば既視感のある光景の只中に立ち竦んでいた。
眼前の光景は、朝に【見た】ものと同じだった。
異なるのは肌を焦がすような確かな温度がある事、立ち上る黒煙が喉に入り込み、呼吸を妨げようとしている事、そして。
「俺の女になる気はないと言い張ったその度胸と、本能寺での働き。なかなかのものだった。貴様は幸いを運ぶ女に違いない。天下統一の験担ぎとして、今後は俺の傍に在り、仕えろ」
あの時、刀を手に振り返った男と一瞬視線が交わった。その本人が、かの有名な戦国武将───織田信長と名乗り、現在が天正10年である事を語って聞かせた事で、今この場が【見た】光景に過ぎないものではなく、現実だという事を凪へ突きつけた。
「験担ぎって…そんな御利益、私にはありませんよ!?そもそも仕えるって、信長様のお役に立てそうな事なんて何もありません」
「言っただろう、傍に在れと。表向きはどこぞの姫として扱ってやる。俺から逃げず、ただ好きな事をして過ごしていろ」
(それって飼い殺し…娯楽のないこの時代で飼い殺されたら、多分退屈で死ぬ…)
まったくもって信じ難い事ではあるが、凪は本物の戦国時代へタイムスリップしてしまったのだ。
しかも燃え盛る本能寺で、ついうっかり目の前にいた人物を織田信長だと気付かずに助け、史実として知られている一大事件を信長生存という形でひっくり返し、挙句何故かその本人に気に入られてしまった。
何を思ったのか、験担ぎとして傍に置く、と居並ぶ有名武将達の前で信長に宣言されてしまうとは、タイムスリップ初日にして、痛恨のミスである。とはいえ一般的な良心を持ち合わせた凪が、炎の中に信長を置き去りに出来たのかと言われれば、答えはやはり否なのだが。
「好きな事と言われても…それはそれで困るんですが…」
「好きに過ごせと言って不服を申し立てるとは、ますます変わった女だ。…良かろう、では貴様には織田軍の世話役の任を与えてやる」