第3章 出立
押しやられた腕を大人しく引き、先程までの調子を取り戻したらしい凪へ肩を竦めて見せた光秀がおもむろに立ち上がった。
傍に置いたままであった竹筒を二つ手にし、袴の裾をなびかせて身を翻す。
あっさり身を引いた、底の読めない男の背を憮然としたまま見つめていた凪だったが、自身も立ち上がって袴についた草を両手で払った。
光秀と間近まで距離を縮めていた所為か、ふわりと自身の着物からもあの上品な香が漂って来て複雑な心地になる。
触れられた箇所の熱や感触を消し去るよう、かぶりを振り、姿勢を真っ直ぐに戻したと同時、ふと馬の方へ歩いて行った光秀が足を止め、首だけを巡らせる形で肩口にこちらを振り返った。
少しずつ真上へ昇る初夏の太陽の陽射しが、光秀の銀の髪や白い着物を照らす。青々とした草木をさざめかせる、少しぬるめの風が二人の間を吹き抜け、色素が異なる互いの髪を揺らした。
「森の中と左二の腕に、左肩…だったか」
低音だが何故かよく通る声に鼓膜を揺らされ、凪が眸を瞠る。緩慢に瞬きをした向こう、少しの距離を空けたその場所に佇んだままの光秀が、そっと口許を柔らかく綻ばせ、囁いた。
「─────…肝に銘じておくとしよう」
二人の間には時代を隔てた境界線がある。
価値観の違いや、互いに口を割らない秘密や過去。
ほんの僅かな時間では到底取り去ることの出来ないそれを踏み越えて行く事は、決して容易ではない筈だった。
(…間者かもしれないって、疑ってるのに…信じてくれるの?)
躊躇う凪を余所に、足を踏み出してくれたのは彼の方だ。
否定のない真っ直ぐな言葉を前に、凪の指先がじんわりと熱を抱く。握り締めた事でより強く感じる自らの温度に、この時代にやって来て、凪は何故か初めて自分という存在を認めてもらえたような気がしたのだった。