第10章 術計の宴 前
─────────…
光秀と凪が無事国境を越え、安土城へ至ろうとしていたその頃。
威勢の良い客引きの呼び声と行き交う人々の賑やかな往来を抜けた先、一軒の広大な敷地を有するその場所に一人の男が訪れていた。
黒鉄の柵でぐるりと外周を囲んでいる大きな建物は西洋建築に近しいそれで、平屋や武家造が立ち並んでいる他とは一線を画しており、異質さと同時に近寄り難さを漂わせている。
にも関わらず、男はまったく意に介した様子を見せず、門番と思わしき二人に軽い口利きをした後、あっさりとそこを通って行った。
建物内へ立ち入り、使用人と思わしき男へ促されるまま上階へと至れば、最奥には重厚で大きな扉が見える。
階下へ視線を一度投げると、そこでは複数の使用人達がいかにも重そうな木箱などを荷車で慎重に運んでおり、その中身に検討がついたらしい男の口元へ緩やかな弧が刻まれる。
恐らく検品用の部屋へ運ばれ、それを済まされた後には別の蔵へと収められるのだろう。
一瞥しただけですぐさま興味を失ったように視線を扉へ向けた男はそのまま扉の取手へ手を掛ける。
そうして、ふと思い出したかのように片手を持ち上げ、軽く握った拳を返して甲の方で扉を三度、【ノック】した。
「私だよ」
名乗らずとも、どうせ案内した使用人から話は伝わっているのだろうが、気まぐれで音にすれば中から程なくして入室の許可が下る。
微かな音を立てて扉を奥へと押す形で開き、室内へ足を踏み入れれば、柔らかくも何処か冷たい薫物がふわりと漂って来た。
取引を行う部屋ではなく、私室へ招き入れられたところを見ると、自身の目的は既に相手へ把握されているのだろう。
後ろ手に扉を閉めれば、整然としながらも明らかに日ノ本の部屋では見る機会の少ない調度品が並んだ室内が視界へ広がり、男───中川清秀は灰色の眼を眇めた。
「君の私室へ招かれたのは初めてだ。少しは私の事を気に入ってくれたと、そう考えてもいいのかな、帰蝶」
清秀が声をかけた男は窓際に佇んでいたその身を振り返らせ、相手を見やって萌葱色の眼へ冷たい色を灯す。
艷やかな射干玉(ぬばたま)の黒髪とそれに反する薄淡い鶯色の外套を緩やかに翻した男───帰蝶は、特に主だった挨拶など交わす事もなく、柔らかな白い革張りのソファへと腰掛け、長くすらりとした脚を組んだ。