第9章 帰路
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光秀と凪が有崎城を経ったその頃。
摂津の外れ、大阪湾に面した岸壁の上に立つ男の元へ近付くひとつの影は、佇むその男に程近い場所で立ち止まり、静かに片膝をついた。
潮風が頬を撫で、互いの髪を揺らす岸壁の下には帆が畳まれた商船が停泊しており、甲板では船員と思わしき複数の男達が木箱や麻袋などを船内へと忙しない様子で運び込んでいる。
草木が生えていないむき出しの岩肌は幾度も打ち付けられる波によって削られたのか均一な形をしていないが、岩を削るような荒々しい波は今は立っておらず、凪いだ海面は穏やかに小さなゆらめきを見せているだけだった。
「戻りました」
「ああ、お前か。八千の野郎はどうなった」
短い音で帰還を告げた男───香車(きょうしゃ)は目の前に立つ自らの真の主たる相手へ視線を上げ、緩やかに口元へ弧を描く。頭部の高い位置で結わえた漆黒の髪を潮風に揺らし、紫紺の眼を眇めた姿を振り返り際に認めた男が、胸の前で組んだ腕をそのままに淡々と問いかけた。
「中川清秀に呆気なく始末されちまいました。まあ元々アンタにとっちゃ噛ませ犬にもならねえ男だったろうし、別に助ける必要もないかと思いましてね」
「まあそうだな。それで、何か収穫はあったか?あの野郎は顕如一派の中でも末端だろうが、おもしれえ話のひとつやふたつ、さすがに持ってんだろ」
香車の慇懃にも程がある物言いを特に咎める様子もなく、ただ鼻で短く笑い飛ばしただけの男は、煌々と輝く真紅の眼を香車へ向け、先を促す。
圧をかけられているわけでもないというのに、男の真紅の眼を前にすると、香車はいつだって言い知れぬ畏怖を奥底で抱いてしまう。問いかけているにも関わらず、それを一切鵜呑みにせず、自らの思考で真偽の秤にかけるこの男のそういった底知れぬ恐ろしさをまた、香車自身が何よりも気に入っていた。
「……いや、それが本当に末端だったみてえで。明智光秀と接触したのも、あの男の独断だったみてえです。顕如側はそもそも明智なんざとつるむ気は端からねえでしょう」
「ったく、とんだ無駄足だったな。分かったのは毒将───中川清秀が生きてやがったっつー事だけか」
香車の報告を耳にし、男は小さく舌を打って鳴らすと真っ白な手袋で覆われた片手を髪で隠れていない方の耳へ持っていき、それへ触れた。