第8章 摂津 肆

「ッ、」

（その眩しい強さと、愚直なまでに健気なお前だからこそ）

唇が触れた頬は甘やかで離れ難い。微かに音を立てて緩慢に離れた光秀は両手をそのまま流れるように背へ回し、包み込むようにして抱き締めた。
瞼を伏せ、凪へ顔が見えないのをいい事に余裕のない男の顔をほんの僅かにさらけ出す。

（───…俺はどうしようもなく凪、お前が愛おしい）

心の声は音にはならない。吐き出しはしない。
きっと我に返ったら凪は自分を恥ずかしがって突き放すだろう。その前に光秀は一度彼女の首筋へ軽く唇を寄せた後、するりと華奢な身体を解放した。

「…ッ、も、もう！一体何なんですか！もしかしてこれも危ない事したお仕置き！？」
「………おや、ご明察。お前にしてはなかなかの慧眼、感服の至りだ」
「かなり馬鹿にしてますよね！？」
「まさか」

首筋やら頬やら、赤くなって押さえる箇所のたくさんあるらしい凪は、やはり頬へ朱を散らしながら眉根を寄せている。
いつものような軽口を交わし合いながら、光秀は喉奥で楽しそうに笑いを零し、おもむろに立ち上がった。
白い袴の裾がふわりと揺れ、それを目で追った凪の前へ手のひらが差し出される。
様々な事が一度に起き、密やかに忙しなく早鐘を打つ鼓動を隠すよう、凪は赤い顔のまま、あくまで憮然とした面持ちでそれを自然と取った。

いつの間にか、差し出された光秀の手を取る事に抵抗がなくなり、その大きな手のひらに包まれる事に安堵を覚える自分が居る事に気付かない振りをして、凪も静かに立ち上がる。
華奢な手を取り、二人の大きさが異なる手がしっかりと繋がれている事へ視線を一度落とした光秀の目元が一瞬だけ柔らかく綻んだ。

「さて…そろそろ帰るとしよう、凪」

優しい声色が胸を打つ。
促すように歩き出した光秀の隣へ並べば、歩幅を合わせた男の流した視線が凪を映した。
向けられる視線があまりにも穏やかであり優しい所為で、落ち着かない心地になった凪が僅かに顔を俯かせ、不機嫌そうな色を乗せると可笑しそうな笑い声が隣から溢れる。

やがて開かれた唇から文句が発せられるのを耳にしながら、二人は緩やかな足取りでその場を後にしたのだった。