第1章 話しかけてもいいか
発した声はその耳に確かに届いたらしい、途端にきつく結ばれた唇、一週間前と同じ狼狽えた瞳が揺れている
「おや、あんたら知り合いかい」
呑気な声がまた部屋に響いて、椅子から飛び降りたばあさんが俺を見上げた
「生憎これから来客の予定があってねぇ」
あんた暇なら寮まで連れて行っておくれよ、
名案だとばかりに明るく投げられたその言葉に、視界の端で彼女が大きく目を開いた
「い、いえ!時間もありますし一人で大丈夫です!」、慌てた彼女が荷物に手を掛けお辞儀をする
落ちた髪を耳にかける指先を追うだけで胸が騒いで、気づけば自身の口から言葉が流れて行った
「・・荷物も多いんだろ、寮まで案内しますよ」
幸い時間なら俺もある、頭に浮かんだ書類の山を掻き消して付け加えた一言
仕方ないだろ、優先順位の話だ、心の中でそう独りごちる
唖然とするその姿を尻目に、俺はベッド脇に置かれた淡い色のスーツケースを持ち上げた
「行かないのか」
「え、あ、いきま、す」
少し後ろを歩く小さな影、静まり返っているわけでもないのに二人の足音だけがやけに大きく響く
ばあさんに礼を言い静かに扉を閉めた彼女はそれきり何も話さない
そりゃそうだよな、当然の反応だ
そう納得しているはずなのに心臓を掴まれたように胸が苦しくて
「・・話しかけても、いいか」
そう尋ねると、びくっと身体を硬直させる気配がした
そりゃそうだよな、当然の反応だ、同じ台詞を心の中で繰り返す
拒絶の言葉を聞くのが怖くて、結局返事を待たずに俺は言葉を続けた
「・・こないだは、助かった」
宣言通り話しかけておいて、どのツラさげて顔を見ればいいのかわからない
左から感じる視線に気付かないふりをし前を向いたまま呟いた
「勧めてくれた眼薬、どちらもよく効くよ」
果てしなく感じた沈黙の後、彼女が静かに微笑むのがわかる
その気配だけでもうどうにかなってしまいそうで、深く息を吸い視線を床に落とした
「・・二つとも買うなんて、眼薬の注しすぎはよくないよ、相澤くん」
昔と変わらない柔らかな声音が俺の鼓膜を揺らして、緊張で冷え切っていた身体に堰を切ったように熱が流れ込んでくる
「ひさしぶり、だね」
たった今自覚した、言う資格のないその言葉を飲み込み
できるだけゆっくりと寮への道を歩いた