第1章 話しかけてもいいか
西陽の差込む廊下に時折聞こえる生徒たちの声、目を閉じて乾きを誤魔化し上げた視線の先、「保健室」の札を見遣る
コンコン、と数回叩いても返事が無いのはいつもの事だ
まだ目が覚めていない可能性を考慮しながら、出来るだけ静かに扉を引くと、意外にもこの部屋の主が大きな声を響かせていた
「——最近の子は無茶ばかりしてねぇ
外傷の手当にどうしても時間を取られちまう、
その分頼りにしてるよ」
部屋の奥から聞こえる声、ばあさんの姿は見えないが絶対安静のような生徒は居ないらしい
来客だろうか、軽く息を吐くと静かに扉に手を掛ける
「大変な事も多いが間違いなくやり甲斐のある仕事だ、あんたラッキーさね」
ぬるい風が開いている窓のカーテンを揺らし扉へと吹き抜けると、ふわりと鼻を掠めた甘い香り
足元に落としていた視線は部屋の奥に囚われ呼吸が止まる
「やーっと助手が来たんだ、週に二日は休ませてもらいたいね」
懐かしくて、苦しくて
好きで好きでたまらなかった香りが、する
そんなわけないだろ、そう思うのに
動かない自分の足がこの予感に間違いはないと告げていた
「修善寺先生のもとで働けるなんて本当に幸せです、沢山勉強させていただきます」
静かに響いたその声、意識的に吸い込んだ酸素が行き場を無くして
仕切りのカーテンがシャッと音を立てて開くと、ばあさんの呑気な目が俺を凝視した
「おや、あんた来てたのかい、
あんたのとこの子ならとっくに帰ったよ」
担任に似て全く言うことを聞かないんだから、
吐き出された嫌味もどこか遠くに感じるほど自分の心臓が煩い
「ちょうどいい、あんたに紹介しなきゃね」
一年A組の、ばあさんのその言葉に華奢な背中がくるりと向きを変えて
彼女が振り返るその一瞬、ドクン、と大きく心臓が鳴る
「相澤、くん・・、なん、で、」
驚きに大きく開かれた瞳が動揺に揺れている
さらりと流れた髪が陽の光を反射して
狼狽えるその目は、相変わらず渇きを知らないらしい
あの頃と変わらず、綺麗なままだ
「な、なんで此処に、いるの、」
その問いに、やっと吐き出せた息が静かな部屋に響いて
もうその姿を見失わないように、真っ直ぐに彼女を見つめた
「・・それは、こっちの台詞だよ」