第59章 あなたは誰?
これには流石に何事かと、他の部屋からも客が顔を覗かせる。
この店の上品な佇まいに似合わぬ大騒ぎ。
その騒ぎの台詞が自分の名前を連呼されるというのには、杏寿郎も耐え難い。
なんとか、店主が女性を鎮めようと一生懸命に声をかけているが、一向に収まる気配がない。
杏寿郎は自分が言って話をつけた方が良いのではと思い、襖に手をかける。
これ以上騒ぎを大きくしたくはないし、何より泰葉にこんな場面に遭遇してほしくない。
ふぅ、と深呼吸をして、杏寿郎は襖を開けた。
杏「少し静かにはしていただけないだろうか!」
少し圧のかかった声に、女性はビクッと肩を跳ねさせる。
そして、その声の主が自分の探し求めていた人物であると、尻尾を振った犬のように飛びかかってくるではないか。
それをさっと身を引き、抱きつかれるのを回避する杏寿郎。
『ああ!煉獄様っ、お会いしとうございましたっ!』
それでも杏寿郎に擦り寄ろうとする女性を、杏寿郎は掌を向け制する。
彼女の顔を見て、昼間急に想いを告げてきた人だと気付き、片眉を上げる。
杏「君は…昼間の…」
『はいっ、煉獄様が…私のこと好きだと仰ってくれたので…。』
杏「む?」
女性はもじもじとしながら、頬を赤らめている。
杏寿郎は女性の言葉に、聞き間違えたかと顔を顰めた。
杏「確か君は…聞いた話によると婚約者がいるそうだか?」
『はいっ、でもあの人より煉獄様の方が何倍も良い男ですし、私には煉獄様の方が合うと思うんです!』
杏寿郎はこの女性の言っていることが理解できない。
否、頓珍漢すぎて考えることさえ拒否しているのかもしれない。
杏「悪いが…」
そう口を開いた時、また後ろの方でバタバタと物音が響く。
後の方を見ると、肩を上下に息を切らした男性の姿。
『…菜絵…。』
そう呟いた。
この女性の名なのだろう。
菜絵は男性の顔を見るなり、怪訝そうな顔をする。
菜「まだ追いかけてくるの?言ったはずよ。私は貴方じゃなくて、煉獄様と一緒になるの!ねー、煉獄様っ」
表情をコロリと変えてにっこり微笑む彼女に、杏寿郎はぞわりと寒気がした。
一体全体、この女性は何を考えているのだろうか。