第30章 名も無き戦い
「……っ!?」
義昭の手の甲に、赤い傷が一筋走った。
「何をする……!」
義昭は飛び退り、傷つけられた手を庇った。
ゆらり、と立ち上がった光秀の顔に、先ほどの焦りは見当たらない。
光秀は待っていたのだ。
義昭が油断し、自分の間合いに近づいてくるその時まで。
「……やはり、気が変わった」
「何だと!?一度ならず二度までも、この私に傷を……!不敬な!すぐに私の手の者がそなたを殺しに参る!あの女も、決して助からんぞ!あの毒は今すぐにでも毒消しを飲まねば絶命する!」
「ああ、そうだな。じき、俺と華音は共に死ぬ。だが、あなたに一矢報いることができる」
「何……?」
小刀を放り、光秀は義昭へとゆったり歩み寄る。
警戒心をむき出しにし、義昭は壁際へとじりじり下がる。
ドン、と壁に退路を阻まれた義昭に、光秀は何かを摘んで差し出した。
「義昭様、これに見覚えは?」
摘まれた針を見て、義昭は眉をひそめた。
「そのような代物、私自ら用いるわけが……
……!!」
瞬間、義昭の顔が、能面のように白くなった。
「まさか、これは毒針の……っ」
「ご明察。この針が、義昭様の命であの娘を襲い……そして今、あなたの手の甲を掠めた」
「な……っ、な……!」
「あの娘は、己の命をかけてこの戦で俺達に確実な勝利を齎した。だが、あなたに一矢報いずに逝くのは、あまりに無念。共に地獄へ参ろう、義昭様」
もっとも、光秀はここで死ぬ気も、華音を死なせる気も微塵もないが。
義昭の敗因は慢心だ。
光秀ほど人を騙すことが上手い者はいないと知っていながら、自分はそうはならまいという慢心。
「……っ、謀ったな、光秀……!」
「おっと」
義昭は光秀の胸をドンと押し返し、部屋の隅へと走った。
「この私を二度も騙しおって……!死んでたまるか……!」
義昭の手が、わなわなと震えながら懐に伸びる。
取り出した巾着から丸薬をつまみだすと、口に含み、一気に飲み下した。
「……っ、はぁ……、はぁ……」
荒い呼吸をする義昭の前に、いつの間にか光秀が立っていた。