【鬼滅の刃】杏の木 ♦ 煉獄 / 長編 / R18 ♦
第1章 序章
生臭く、血の匂いに満ちているのに、この世のどこよりも気持ちよくて温かい世界。
その世界も終わりを告げる日がやってくる。
暗闇の静寂は終わりを告げ、瞼を閉じていても痛いぐらいの光と、肺腑の奥に満ちた液体を吐き出す苦痛で思わず声をあげずにはいられない。
「ふえ……オギャァァ……」
最初こそ消え入りそうな声だったものの、すぐに力強く声を出すようになる。とても健康な証拠だ。
「よもや!」
しばらく泣くと、誰かに抱かれるのがわかった。目が見えないものの、その腕はとても力強く、そして温かい。
「むう、どうしたものか…」
血と羊水に汚れたその体を、自らの羽織で素早くくるむ。すると安心したのか、その赤子はすぅ…と泣くのをやめ、静かに寝息を立て始めた。
側には先ほど落としたばかりの鬼の首が転がり、体は既に半分は消滅しかかっている。その鬼がぴくりと指を動かした。
思わず反射的に、まだ鞘に収めていない燃えるような赤い日輪刀の切っ先を鬼の首へと向ける。
「…こ……」
文字通り今にも消え入りそうな頭部から、かすれた声でその鬼は囁いた。
「……おん……なの…こ…?」
既に死期を悟っているのだろう。最後の命の炎を燃やし、何かを伝えようとしているのは見て取れた。
「うむ、おなごだな。可愛い顔をしている」
そう告げると鬼は口角を上げた。それは何人もの人を喰らい、傷つけ、命を奪った残忍な笑みではなく、間違いなくひとりの母親としての温かさを帯びた笑みだった。
「なま…え」
とうとう体の殆どは消え、唯一残っていた指がその赤子を指さす。
「きめ…て……たの……なま…え…」
それだけは伝えようという強い意志なのだろう。
頭部が消える時も唇を最後に残し、その鬼は告げた。
「蛍」
それがその鬼の最期の言葉となった。
実は、死の間際に人間の記憶や人格を思い出す鬼は少なくない。
鬼殺隊に入り、その中でも最強と謳われる柱の一員になるほどの経験を積んだその男には、それは決して珍しい光景ではなかった。
しかし、鬼から赤子が生まれる…これはその男の鬼殺隊としての経験どころか、鬼殺隊の歴史の中でも類い希な出来事だった事は間違いがなかった。