第61章 綢繆未雨(ちゅうびゅうみう)
『…いじらしいな。』
ポツリと謙信が呟いた。
近くにいた、まだ新入りと覚しき信玄の家臣達がどよめき、その表情を見て更に動揺を滲ませる。
『謙信殿が、女子(おなご)の話をしながら微笑んでいらっしゃる!』
『信玄様が、ひなと仰られていたが、確か信長の妹君(いもうとぎみ)の名では…。』
『なにっ、あの魔王の妹だと!?お、恐ろしや…。
しかし「いじらしい」とは、まるで賛美されているよう…な?』
『まさか!「卑しい」の聞き間違いだろう。』
などと好き勝手に囁き合う。
『黙れ、凡俗が。』
瓜を割るような鈍い音と共に、謙信の刀が畳に突き立てられた。
(※凡俗(ぼんぞく)〜ありふれて取り柄のないこと。また、その人。)
『ひいぃぃぃっ!!』
潮が引くように家臣たちが後退りし、謙信の周囲が開ける。
『貴様らごときが、ひなを語るな。
その口、頭もろとも切り落として利(き)けんようにしてくれる。』
家臣の一人がゴクリと喉を鳴らした時、のんびりとした口調で信玄が言った。
『そう俺の家来を虐めてくれるな、謙信。』
悠長に手酌で酒を呑む。
『信玄、お前は腹が立たんのか。昨日・今日、家来になった者共に、あの女の事をいいように語られて。』
『家来の躾が出来ていないのは長である俺のせいだ。代わりに謝る。すまない。』
信玄が頭を下げる。
『それにしても、お前がひなの事でそんなに感情的になるとはな。正直、驚いた。』
『確かにそうですね。謙信様が感情を素直に表すなんて珍しい。
これは・・・!明日こそ、梅干しの雨が降るかもしれない。』
佐助が真剣な顔で外を覗いながら言うと、幸村は頭を抱える。
『そんなこと、あるわけねえだろ。』
うーん、と顎をさすりながら信玄も言った。
『俺は甘味の雨がいいがなあ。』
『あんたは黙っててください。んなもん降ってきたら、ひなと二人で口開けて、つっ立ってそうですから。』
『ははは。天女と一緒に甘味の降る空を仰ぐのか。
なかなかに甘い時間が過ごせそうだな。
ところで、お前達。会ったこともない者の事を、噂を鵜呑みにして、どうのこうの言うもんじゃない。
さあ、謙信に謝って向こうで飲み直せ。』