第56章 相即不離(そうそくふり)
〜場所は再び、琵琶湖の湖上に戻る。
信長と睨み合う長政の元に、斥候がやってきて何やら耳打ちした。
一瞬の逡巡ののち、長政は、おもむろに目を瞑ると腰の刀を掴む。
一気に鞘から抜き放ち刃先を自らの首に向けた。
『させん!』
信長は、一間(いっけん)程に近付いた長政の船に飛び移り、刀を持つ長政の腕を掴む。
『離せ!死なせてくれ!』
『させんと言うておるのだ。目の前で自害しようとする弟を、止めぬ兄が何処にいる!』
信長の咆哮に皆が静まりかえる。長政は顔を上げて信長を見ると、その場に崩れ落ちた。
遅れて船を移った慶次が、それを取り押さえる。
[※一間〜およそ1.8メートル]
『どうして自害などと阿呆な事を考えた。』
観念したのか力なく項垂(うなだ)れる長政の前に立ち、真意を問いただす。
『友が…義景が死にました。』
『何?』
奥歯を噛み締め長政は唸るように話し続ける。
『武田・上杉同盟軍によって追い詰められた、かの友は、崖下を流れる九頭竜川に飛び込み、自ら命を断ったと…。
信玄は織田軍を…貴方を恨んでいたではありませんか。
謙信は安い愛憎劇などには興味の無い男の筈だ。
なのに何故…何故、今になって味方をする?
何故、神仏を蔑(ないがし)ろにしながら貴方は命冥加(いのちみょうが)なのだ!?
何故、義景殿が死なねばならないのですか!
貴方が…死ねば良かったのに。』
[※命冥加〜神仏のお陰で命拾いすること。]
長政は嗚咽を噛み殺し、信長を睨み据えた。信長は視線を合わせるように体を屈め、長政の肩を掴む。
『恨め。もっと憎め。俺を罵詈雑言で罵るがいい。
そうして俺の寝首を掻き切る手段でも考えながら、生きろ。簡単に死ぬことは許さん。
貴様は死んで楽になれるかもしれん。
だが貴様の側で、貴様の身を案じ、心を擦り減らして待っている者がいることを決して忘れるな。』
そう言うと、信長は後ろを振り返らず自軍の船に戻って行った。
大切な事を思い出したのか、一瞬ハッとした顔をして子供のように大声で泣く、長政の姿を残して。