第55章 胡蝶之夢(こちょうのゆめ)
『まさか、この俺が女で、あの信長の…正妻だったとは。
知ったときは驚きのあまり卒倒するところだった。』
ひなは無意識に下唇を噛む。
(それは、私が この時代に来てしまったせいだ。
私が帰蝶さんの運命を狂わせてしまったんだ…。)
小さな溜め息と共に、指で おでこを突つかれる。
『痛っ…くは無い…?』
(そうだ、これ、帰蝶さんの夢の中だった!)
『何でもかんでも自分のせいにするのは、よせ。俺は今の姿に満足している。
それに、俺が女だったとして、信長と肌を合わせていたのかと思うと寒気を覚える。
女であれば良かったと言ったのは…女であれば妙な野望など持たず、お前を苦しめることも無かっただろうと思ったからだ。』
(あんなに最低な事を言ったくせに、どうして私の心配をするんだろう。)
ひなは意味が解らず口ごもる。
『さて、そろそろ夢から覚める時間のようだ。』
帰蝶が緩やかに立ち上がる。
『えっ、待ってください!私は どうすれば…。』
『お前の好きなように。美しいこの場に留まりたければ大人しく過ごせばいい。
騒がしい世に戻りたければ、どうにかして帰り道を探せ。』
『そんな勝手な!』
(帰蝶さんが私を、自分の夢に連れてきたって言ってたくせに、帰り道なんて解らないよ。)
ひなの言葉が聞こえているのか いないのか、帰蝶が背中を向けて歩き出した。
だが、数歩離れた所でピタリと立ち止まる。
『そうだ。言い忘れていたが、あの薬は、お前に渡した物で全てだ。もう俺の手元には無い。安心しろ。』
『え?安心って…あれは毒じゃ無いんですよね?』
ひなの問い掛けには答えず帰蝶は歩みを進め、いつの間にやら出ていた濃い霧の中に消えて行った。
『本当に行っちゃった。』
(あの薬が毒じゃないなら、別に心配しなくてもいいよね。)
『さて。確かにここは綺麗な所だけど、帰蝶さんの話を信じるなら、あんまり長居しないほうがいいのかも。』
腹をくくって立ち上がる。