第54章 一念通天(いちねんつうてん)
背中で千代女の声がする。
『あの傷では長くは持たぬ。捨て置け。』
やっとの思いで馬の背に股がると、激しくその腹を蹴る。馬が一声嘶いて走り出した。
その姿を見送ると、千代女と他の家臣達は森の中へと消えて行った。
…どれくらい走っただろう。千代女がいた場所からは、かなり離れた筈だ。
空が白み、目の前に川が見えてきた。
馬を止めると、兼続は馬上から転がるように降りる。
馬に川の水を飲ませ草を食ませてから、持っていた手拭いを川に浸し絞る。
着物の合わせをはだけ、そっと胸の傷に当てると軋むように傷んだ。
『うっ!全く…容赦ないな。だが、綺麗な切り口だ。これなら、すぐに塞がるだろう。』
血を拭き取ると、乾いた手拭いで傷口を抑え包帯を巻く。
(これでいい。だが、明らかに進度は落ちるな。)
目指す越後の地は、まだ遠い。仰ぎ見ても、今はその片鱗すら見えない。だがしかし兼続は誓う。
(必ず、謙信様に書状をお届けする。たとえこの身が朽ち果てても。)
今一度 気合いを入れ直すと馬に股がる。傷の痛みなど、ひなの顔を思い出せば忘れられた。
『さぁ、お前も もう少し一緒に頑張ってくれ。はっ!』
兼続は馬の腹を蹴ると、一直線に走り出す。
まだ何も知らぬ、謙信の元を目指して。
※一念通天~どんなことも、ひたすらに信じて念じ続ければ、必ず天に通じて成し遂げられるという意味。