第54章 一念通天(いちねんつうてん)
『鷺山殿の命(めい)でな。信長の書状を持った お前を、このまま通す訳にはいかないのさ。』
(書状の事まで…。)
風を切る音がした次の瞬間、女のクナイが兼続めがけて飛んでくる。
『くっ!』
兼続がかろうじて刀の柄で弾いた。その隙に女は兼続の間合いに入り、持っていたクナイを振り下ろす。
金属のぶつかる鈍い音が、暗がりに数回 響き渡った。鍔迫り合いをしていたが次第に押され、己の刀が じわじと眼前に近付いてくる。
(こいつ…女のくせに、なんという力だ。)
刃の棟(むね)が鼻先に触れそうになった時、女が小声で言った。
(※棟~刀の刃の反対側部分)
『直江殿、どうかこのまま騒がずに、お耳だけお貸しください。』
(なんだ?先程とは まるで別人のような語り口だ。)
兼続は、ゆっくりと瞬きをして理解した意を示す。
『私の名は望月千代女(もちづきちよじょ)。信玄殿にお仕えする忍でございます。
信玄殿の命令で、鷺山殿の元に密偵として潜り込んでおります。』
(信玄様の?)
『何故だ。』
『この場で詳しい事は…。』
千代女が右に左に視線を這わせる。
(成る程。先程1人だと言ったのは故意か。他にも鷺山殿…帰蝶の手先がいるというわけだな。)
『直江殿に協力して頂きたいことがございます。』
『俺に出来ることならば。』
小さく溜め息をつくと、千代女が囁いた。
『私に斬られて下さい。』
『なにっ!?』
驚きに表情が変わりそうになるのを、既の所(すんでのところ)で耐える。
『這う這うの体(ほうほうのてい)で逃げ出したと思わせるのです。
直江殿をこの場から逃がす為に、どうか!』
千代女の強張る顔を見る限り、あまり猶予が無いのは確かだ。
『…解った。貴女を信じよう。』
その言葉を合図に、一度 刀を弾いて距離をとる。
次の瞬間。
『ぐっ!』
掛かっていた雲がゆるゆると消えて、痛みに歪む兼続の顔が露(あらわ)になった。
横一文字に斬りつけられ、血の滴る胸元と共に。
兼続は荒い呼吸を繰り返し、よろよろと馬の側へ急いだ。