第53章 川上之嘆(せんじょうのたん)
『さて、家康。これは命令だ。この薬をひなに飲ませろ。』
家康が驚きに目を見開く。
『は!?何を言ってるんですか。
毒ではないというだけで、どんな薬かも解らない物を…。
ましてや弱ってる人間に飲ませるなんて自殺行為だ。いくら信長さまの言うことでも、そんなこと出来な…。』
やおら信長は立ち上がった。家康の目の前に歩みでると、両手で その襟元を鷲掴む。
『家康、よく聞け。俺は「命令だ」と言っている。
よいな。』
反論を許さない冷淡な瞳に、悔しさを滲ませる家康の姿が写っていた。
『あんたの事を憎らしいと思ったのは、これが二度目です。
一度目は人質に取られた時。二度目は、たった今だ。
…失礼します。』
信長の手を無造作に払い除けると、激しく障子を開け閉めして家康は去っていった。
『ふっ、言うようになったな。』
心なしか嬉しそうな信長の声は、宵闇に吸い込まれるように消えて行った。
… … …
ぶつけようのない怒りを抱えて、家康が ひなの眠る部屋に戻る。
障子の前で深呼吸をして中に入った。
(良かった、まだ寝てる。あんたに、俺の怒り狂った顔は見せたくないからね。)
『ゴホゴホ!』
ひなが乾いた咳をする。水分も取っていないのだろう。枕元に置いた水差しの中身は、減った気配が無い。
家康は、ひなが目覚めないように静かに体を抱き起こした。
ガラス瓶を片手に取り、薬の混ざった溶剤を一気に呷(あお)る。
そろりと顔を寄せ、眠るひなに口付けた。その唇に、じわじわと液体が流れ込む。
『んっ…。』
僅かに眉を動かしながら、ひなが喉を鳴らして飲み込んだのを確認すると、名残惜しそうに離す。
『少なくとも、あいつの余韻は消せたよね。』
(死なば諸共だ。)
家康は、まだ口の中に残る液体を迷い無く飲み込む。
軽く抱き締めてから、元のように、ひなを布団に寝かせた。
『あんたを…一人にはしない。』
※川上之嘆~無常に時が過ぎていくことへの嘆き。
『論語』川上は川のほとりのこと。孔子が、昼も夜も関係なく流れる川を見て、過ぎ去るとはこういうものかと嘆いた、と言われたことから。