第53章 川上之嘆(せんじょうのたん)
『ひな、煩(うるさ)くして、すまなかったな。』
『いえ…。』
『ゆっくりと休むがいい。では家康、頼んだぞ。解り次第知らせろ。』
家康が小さく頷くと、羽織を翻し信長が去っていく。
信長の気配が遠ざかったのを確認すると、家康がひなに話しかける。
『この薬品がどうしたっていうんだ。ねえ、ひな、信長さまに何言われ…って、寝たのか。』
掌の包みと、ひなの苦しそうな寝顔を交互に眺めていた家康だったが、気を取り直して文机に向かう。
『あの信長さまが急いで調べろと言ったんだ。何か大切な意味があるはず。』
家康が、そっと薬包紙を開く。薬匙(やくさじ)で一杯 掬い取ると、手頃な器に入れ溶剤を混ぜる。
『…なんだ、これ。こんな成分、見たことも無い。』
家康は足元の篭から、おもむろにハツカネズミを一匹掴むと、薬匙の液体を その口に流し込む。
ハツカネズミはキュキュッと鳴き声を上げるが、特に何も変化は無い。
その後も暫く様子を見たが、いたって普通だった。
『毒では無いようだな。』
そのことを急ぎ信長に伝えに行く。
『…というわけで、まだ詳しいことは調べてみないと解りませんが、概ね毒ではないようですね。』
信長の待つ広間には既に、呼び戻された秀吉もいた。家康は今の時点で解っている事を伝える。
『やはりか。ご苦労だった、家康。フッ、あの男やってくれるわ。』
『え?』
『は?』
訳の解らない顔の家康と秀吉に、先程 ひなから伝え聞いた話をする。
秀吉は怒りに打ち震えた。
『か弱い女子に非常なことを!』
家康は普段の不機嫌そうな顔を一層 不機嫌にして言った。
『なんですか、それ。何考えてんの、帰蝶の奴。っていうか、ひなも ひなだ。
せめて俺に話してくれたら、毒なんかじゃないってすぐに解ったのに。』
膝の上に置いた拳を強く握りしめる。
『それが出来なかったんだろう。大切な物を奪うと言われてな。
ひなのことだ。きっと俺達も、大切な物の中に入ってるんだろうな。』
秀吉と家康の瞳が、ハッと驚きに見開かれた。
家康はポツリと呟く。
『そんな風に思ってくれてたとしても、ひなが元気じゃなきゃ、ちっとも嬉しく、ない。』