第45章 意馬心猿(いばしんえん)
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所代わって甲斐の国、躑躅ヶ崎館にて。
(今でも思う。何故あの時、異変に気付かなかったのかと。
何故その手を掴み、無理矢理にでも自分の元へ連れ帰らなかったのかと。)
目の前の文机には、幾つも和歌の書きなぐられた紙が散乱している。
信玄は、それを只 ぼんやりと眺めている。
『梓弓(あずさゆみ) 引けど引かねど 昔より 心は君に よりにしものを…。』
((あなたが私の心を引こうが引くまいが、昔から私の心はあなたに傾いておりましたのに))
*伊勢物語より*
バキッ!
握り締めていた筆が真っ二つに折れた。
『信玄さま!』
音を聞き付け幸村が障子の外から声をかける。
『入っても?』
『あぁ、幸か。』
スッと障子を開き、幸村が信玄に歩み寄る。
『はぁ、またですか。ったく、何本 筆折りゃ気が済むんですか。』
幸村に言われて初めて、信玄は手元に目をやり、手の中で折れた筆に気付く。
『おっと…またやってしまったか。悪い、幸。新しい筆、持ってきてくれるか?』
幸村は もうひとつ溜め息を付きながら、文机の上にコトリと新しい筆を置いた。
『用意がいいな。』
にっこり笑って信玄が再び筆を手にする。
『ちょっとは休んでください。体にさわります。
たいして寝もしないで短歌ばっかり詠んでるって、みんな心配してます。もちろん、俺も。』
青白い顔の信玄が、フッと自嘲気味に笑う。
『俺の命で、もし二人が戻ってきてくれるなら本望なんだがなぁ。』
『…信玄さまのせいじゃ無いでしょう。俺だって、あの場に居たのに何も出来なかった。』
幸村がギリリと奥歯を噛み締める。
『居なくなって、もう ひと月か。何処へ行ってしまったんだろうな。
俺が どうこう言えた義理じゃ無いが、体を壊していなければいいが。』
(いや、せめて何処かで生きていてくれ。)
『そうですね。体に気を付けて頂きたいのは、信玄さまの方です。』
『だよな。………。!?佐助っ!!』
幸村が二度見する。横に並んで、さも当たり前のように佐助が座っていた。
『幸村、おひさ。』
のほほんと佐助が片手を上げる。