第44章 一日千秋(いちじつせんしゅう)
『…別に急いでないし。』
家康が小声で呟きながら門番を忌々しげに見詰めた。
『…可愛い。』
ひなが、ふにゃりと表情を崩して言う。
『ちょっと、あんたまでそういう事言うわけ?』
家康が口をへの字に曲げひなを見ると、どうも視線がずれている。ん?と視線の先を辿ると、小鹿が一匹、家康の脚にすり寄っていた。
『可愛いね、飼ってるの?バンビ。』
『ばん…び?こいつの名前は「わさび」俺の非常食。』
『食…!?』
ひなが家康を見つめて固まる。
「ピィ~!」
ひなの持っている風呂敷包みに わさびが噛みついている。
『わっ!』
『こら、わさび。それは食べ物じゃない。』
家康が、わさびを抱き上げる。
『ううん、食べ物なの。政宗が作ってくれた羊羹。
すごいねぇ、わさびちゃん。食べ物が入ってるの、解ったの?』
体を屈めて、ひなが わさびの頭を撫でる。
『あ、ワサビで思いだした。緑色のは家康用にワサビ入りらしいよ。』
「ピィ?」
名前を呼ばれたのが解るのか、頭を撫でられ気持ち良さそうに目を閉じていた わさびが、顔を上げて ひなを見た。
『丁度、八ツ時だし、折角だから休憩してけば?』
『え、いいの?』
ひなの顔が嬉しそうに綻ぶ。
『あ、しまった!慶次が、今夜は私の為に宴を開くって言ってくれてて、それを政宗さんに伝えるの忘れてた…。』
『少し休憩してからでも間に合うよ。あの人の料理の腕前と速さなら。
俺も一緒に行くし。…食べたいんでしょ?政宗さんの作った羊羹。』
『う…。食べたいデス。』
『ふっ、素直なのが あんたの良いところだよ。』
家康が わさびを下におろす。
ひなの手から風呂敷包みを取ると左手を差し出した。ひなが、その手を遠慮がちに繋ぐ。
数歩後ろを付き従う門番達がボソボソと話している。
『これは一歩 前進ですかな。』
『だと良いが。家康さまは喜びがあまり表情に出ぬお方ゆえ…。ひな姫さまが気付いて下さるよう、我々で何か策を練るか?』
『練らなくていいから。』
家康の耳には届いていたようだ。
『え?羊羹は練らないと作れないよ。』
ズレた返答をする ひなが可愛くて、家康はぎゅっと手を握り直した。